
古代ハワイでは、ハワイ語やフラ、カヌーとともにサーフィンもまた、ハワイアンのアイデンティティを決定する大きな要素の一つとなっていた。サーフィンは、特に貴族階級のスポーツとして日常的に行われており、偉大な大酋長といわれている人の多くは、サーフィンでも第一級の腕前を持っていた。偉大な大酋長たちは、大波に乗ることによって勇気を示し、人々から人望とカリスマ性を得ることができた。サーフィンは、こうして古代ハワイ社会において、酋長や戦士たちの勇気と権力の象徴として利用されていた。彼らは、自分のお気に入りのサーフ・ポイントを一般の人が立ち入ることのできないカプ(聖地、または禁止項目/タヒチ語のタプ、またはタブー)にして、酋長と親しい友人たちだけがその波を独占していた。カプに立ち入り、サーフィンをしているところが見つかれば、即座にクーと呼ばれた死刑執行人によって撲殺されるほど、カプは厳しい掟・聖地として運用されていた。優良な波がたつサーフ・ポイントのカプ制度は、まさに権力の象徴としてサーフィン好きの酋長たちによって乱用されていた。いってみれば、ローカリズムの原点ともいえることが、古代ハワイ社会ですでに起きていたことはとても興味深い。
同じカプでも、禁じられた結婚相手に恋をしたサーファーが、2人でマウイ島のハナに駈け落ちをして、サーフ・ポイントの前のビーチ・サイドで仲つつましく暮らすというラブ・ロマンスの物語が残っている。古代ハワイ社会では、アリイ(貴族)階級、カマアイナナ(平民)階級、カアヴァ(奴隷)階級という3つの階級制度があり、さらに同じアリイ階級でも身分の上下があり、身分・階級の異なった者同士の結婚は厳に禁止(カプ)されていたのだ。
キハアピリラニは、傷一つなく頭からつまさきまで完璧な体つきをしていた。それは、彼がいつも食べ物や生活に気をつかい、健康に注意を払ってきた証拠であり、彼の体にはエネルギーが満ちあふれていた。毎日のように海でサーフィンや水泳などをしていたので、彼の体はたくましく赤銅色に焼け、目はモホエア鳥(注20)のように輝いていた。大酋長ホオラエの娘、コレアモクは、いつもケアニニでサーフィンをしていた。ケアニニのサーフ・ポイントはカプエオカヒ湾の内側にあり、波は緩やかにブレイクしていた。ホオラエの娘は、優れたサーフ・ライダーであった。キハアピリラニは、ホームグラウンドのワイキキで波乗りをしており、彼は、たびたび長く緩やかにブレイクするマイヒワとカレフアワヒの波を自慢していた。あるとき、キハアピリラニとコレアモクは、ワイキキで数日一緒にサーフィンを楽しむ機会があった。ホオラエの娘、コレアモクは、すぐにこの美しい青年に恋をしてしまう。彼女は、キハアピリラニの妻になることを決心したのだが、彼女にはすでに父親が決めた婚約者、ロノアピリラニという酋長がいた。身分が違う彼らは、カプによって固く結婚が禁じられていたのだ。こうして、意を決した二人は誰も追いかけて来ることができない奥地、マウイ島ハナに逃げのび、そこで静かで平和な生活を送ることになる。
さて、ハワイの史実には、酋長とサーフィンに関するたくさんの物語が登場する。サーフィンに秀でた酋長は、フラやチャントなどによって英雄として讚えられた。カマカウの著書『Ruling Chiefs of Hawaii』には、巨大なサメと闘った反骨のサーファーの物語が登場する。
ハワイ島のカウ地区の酋長であったヌウアヌパフは、勇気あるサーファーとして人気が高かったが、権力欲の強く嫉妬深い大酋長カラニオプウは、ヌウアヌパフのことが気に入らなかった。あるとき、サーフィンを楽しんでいたヌウアヌパフは、巨大なサメに出会い、壮絶な闘いを繰り広げサメを殺すのだが、反逆者としてカラニオプウに追放されてしまう。しかし、後に巨大なサメを殺した革命的なサーファーとして不滅の名声をえることになる。
ハワイで最も優れたサーファーは、15世紀終りごろから16世紀初頭にかけて活躍したハワイ島の大酋長ウミであると、史実は教えてくれる。ウミがまだ若く、それでも有名なサーフ・ライダーとして知られていたころ、ラウパホエホエを支配する酋長は、ウミのサーフィンの実力を試すべく、パイエアというサーファーと戦わす。カマカウは、前出の著書で次のように記述する。
彼の名前はパイエアといい、彼は波を知りつくしており、サーフィンは最も上手かった。ヒロに隣接しているラウパホエホエでは実力ナンバー・ワンのサーフ・ライダーであり、誰も恐くて乗れないような大波でもパイエアは平気で波に乗った。彼は特筆すべき技術を持っていたのだ。ある日、ラウパホエホエの酋長は、パイエアとウミが戦う賭けサーフィン・コンテストを開いた。ワイプナレイからカウラに住む人々は全員ウミに賭け、ラウパホエホエの住人はパイエアに賭けた。そして、二人はサーフィンの試合をはじめたのだが、すぐにパイエアはとてもウミにかなわないことを悟った。彼らが岩場の方に流されていったとき、パイエアはウミを岩に叩きつけようとした。しかし、ウミは腕力でも負けてはいなかった。ウミはパイエアの胸を蹴り上げ難を逃れた。二人が海から上がってきたとき、誰の目から見てもウミの勝利は明白であった。勝負は、パイエアが殺意をもって岩に押し込めようとしたときに決着がついていたのだ。こうして、ウミを殺そうとしたパイエアはイム(かまど)で蒸し焼きにされた。
18世紀終りごろになると、サーフィンは、西欧人たちの目に触れることとなる。長さ5.5メートル、重さ70キロもあるコア・ウッドのボードの上に立像のように立ってサーフィンをするハワイのサーファーたちの姿は、当時の西欧人たちにとって驚きであったようだ。ハワイに派遣された宣教師ウイリアム・エリスの著書『Polynesian Researches』によると、カウアイ島の大酋長であったカウムアリイは、熟達したサーファーとして名声をはくしていたと書いている。また、彼は、カライモクとカキオエナの2人のハワイ島の酋長がサーフィンをしているところを目撃している。
「二人の酋長は50代と60代の肥満した大きな体をした男であったが、細く長いボードにバランスよく波に乗り、また、一六歳の若者よりもはるかに美しいフォームで波を切り刻んだ」
と、その様子を驚きをもって描写している。
西欧人の目に触れた酋長のなかで最も熱狂的なサーファーは、なんといってもカメハメハ一世とその妻カアフマヌ妃であろう。彼らは、ハワイの歴史のなかで、酋長として最も誉め讚えられたサーファーであった。彼ら2人は、ハワイ島ノース・コナのプアアでしばしば波乗りを楽しんでいたという。プアアにある溶岩が突き出した先にある珊瑚礁のサーフ・ポイント、コオカは、波が高くなると非常に危険で難しいポイントで、当時、カメハメハ一世とカアフマヌ以外誰1人として、そのポイントで上手に波乗りができなかったという。
注20:
モホエア鳥
ハワイ名:mohoまたはmohoea、英名:Hawiian rail、学名:Pennula millsi、日本名をハワイクイナといい、すでに絶滅したクイナ科の鳥。短い羽と細い体、長い足を持つが、飛ぶことができない。
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投稿者 でがわ : 2007年06月08日 21:54
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