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   <title>ドクターシゲモリが語るサーフィンの人・物・事</title>
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   <title>ハワイの原生爬虫類、ヤモリ</title>
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   <published>2008-03-13T13:55:38Z</published>
   <updated>2008-03-13T14:04:58Z</updated>
   
   <summary>人間が住みつく以前のハワイには、いくつかの種類の野鳥とフクロウ、そしてコウモリとゲッコーと呼ばれるヤモリのたぐいしか棲息していなかった。現在ハワイで、グアムのブラウン・ツリー・スネークのように猛威を奮うほど大繁殖をしている外来種の生物は、野...</summary>
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   <category term="989" label="ゲッコー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="197" label="ノースショア" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[人間が住みつく以前のハワイには、いくつかの種類の野鳥とフクロウ、そしてコウモリとゲッコーと呼ばれるヤモリのたぐいしか棲息していなかった。現在ハワイで、グアムのブラウン・ツリー・スネークのように猛威を奮うほど大繁殖をしている外来種の生物は、野生化したニワトリとヤギ、そして野ブタがいる。また、ハワイアン・ラッツと呼ばれる小型のねずみも大繁殖しているが、これらのねずみを退治するために輸入した天敵のマングースもまたノースショアでは大繁殖している。ハワイでなぜねずみとマングースが共存してしまったのか？それは、ねずみは夜行性で、マングースは昼間行動するから、みごとに住み分けてしまったのだそうだ。この逸話は、ハワイの人々が大好きな笑い話のひとつではある。
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<img alt="gecko.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/gecko.jpg" width="480" height="360" />
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さて、ハワイの代表的爬虫類というとやはりヤモリだろう。ヤモリのハワイ名、ゲッコーはＴシャツの柄などにも登場するなどハワイでは大変なじみが深く、みんなから親しみをもたれている爬虫類である。冷酷無否な目を持つ爬虫類のなかでは例外的にたれ目でユーモラスなところがいいのかもしれない。
<br>
わが家にも20匹以上のゲッコーが昼となく夜となくあたりかまわず彷徨していたが、部屋のドアを閉めるとき、挟まれて圧死してしまったとんまなゲッコーや、ごきぶりホイホイにひっかかり、餓死するのろまなゲッコーもいて、ハワイのヤモリを観察しているとけっこう笑えることが多い。夏はベイビー・ゲッコーのシーズンで、しっぽも入れて2センチほどの小さなゲッコーが1ダースほど家中をうろついている。そのうち、天井でパタパタと回っているファンの上に落ちたり、突然のスコールで水死したりと、冬場には2～3匹しか生き残れないサバイバル・レースが夜な夜な展開している。
<br>
彼らの得意とするのが、壁や天井をのそのそはいずり回れることだ。その秘密はもちろん足の裏。タコの吸盤のような構造だと思ってたら、大間違い。前足と後足にある各4本の指の裏は細かなヒダのようになっていて、このきめの細かく柔らかいヒダを使って足掛かりにしている。ガラスの上でも、スベスベの壁でもスルスルと滑るように歩く様子はなかなか愛らしい。
<br>
彼らは家ばかりではなくクルマさえ住まいとしていて、時々運転中、外側のフロントガラスの上にのこのこと飛び出してくることがある。わたしの実験では、時速50マイルのスピードを出しても、ゲッコーは風圧をものともせずに持ちこたえることができた。
<br>
さて、彼らの2番目の得意技が変身。白い壁ではプラスティックのような半透明で、内蔵とかが透けて見えるので観察をするにはちょうどいい。茶色の壁では茶色にカモフラージュができる。また、まだピクピクと動くしっぽを置いて、すたこら逃げる離れ業もあるゲッコーはなかなかの芸達者であるようだ。
<br>
彼らの最大の得意技が大食い。人間にとってあまり歓迎されない虫たちを餌にしているところが、爬虫類にしてはエラク人気が高い理由でもある。蚊やハエや、時々大量発生するターマイト、蛾のたぐいからゴキブリさえも彼らのターゲットである。ハワイのゴキブリは大きくて、平均5～6センチもあるのだが、それをパクリとやる。ゲッコーは大きいもので10センチぐらいあるが、爬虫類の特徴で体の大きさの割に口が大きい。長い舌を上手に使い、小さいものだったらペロリ、大きいものだったらパクリといく。
<br>
毎夜、キ、キ、キ、断続的に続く甲高い声を発しがら、太い胴体を左右に振る愛すべきゲッコーは、ノースショアにはなくてはならない共同生活者なのである。
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   <title>南の島とヘビ</title>
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   <published>2008-03-02T10:04:00Z</published>
   <updated>2008-03-02T10:14:44Z</updated>
   
   <summary>あるとき、ビッグアイランドやマウイ島などハワイ諸島の自然百選的な写真集を見ていた友人の一人が唐突にハワイにはヘビはいないのかと、尋ねてきた。世界第2位の熱帯雨林を有するカウアイ島のジャングルなら何らかのヘビがいてもおかしくはないが、その友人...</summary>
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   <category term="985" label="ブラインド・スネーク" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="984" label="ブラウン・ツリー・スネーク" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[あるとき、ビッグアイランドやマウイ島などハワイ諸島の自然百選的な写真集を見ていた友人の一人が唐突にハワイにはヘビはいないのかと、尋ねてきた。世界第2位の熱帯雨林を有するカウアイ島のジャングルなら何らかのヘビがいてもおかしくはないが、その友人の期待を裏切るようだが、わたしは即座にいないよと返事をした。しかし、これは正確ではない。なぜならば、ハワイにはヘビとは名前ばかりの、ミミズの親戚のような小さなヘビが1種類いるからだ。
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<img alt="blindsnake.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/blindsnake.jpg" width="480" height="360" />
<br>
名前は、<strong>ブラインド・スネーク</strong>。体長は15センチ前後、胴回りもミミズほどの太さで、色はほとんど黒に近い。名前のとおり視力がほとんどない夜行性のヘビで、日中は土のなかに隠れている。アリやシロアリなどを食べるという、人間にとっては無害で可愛らしいこのヘビは、ノースショアでもたくさん見ることができる。
<br>
以前思いがけず、友人の家のプールで溺れかけているブラインド・スネークを助けあげたことがある。プールに黒いヒモでも浮いているのかと思い、水から拾い上げたところ動きだしたので、初めてブラインド・スネークと分かったぐらいだ。夜中、もそもそと動き回り、プールに落ちてしまったのだろう。助け上げたのが午後の2時ごろだったから、ブラインド・スネークは、かれこれ半日は泳いでいたことになる。
<br>
また、ある日、農作業中に一度、ブラインド・スネークをくわで真二つにしてしまった。トカゲのしっぽのようにふたたび再生するかもしれないと思って、ふたつになったブラインド・スネークの胴をくっつけて土をかけておいた。その2～3日後にふたたび様子を見に行ったのだが、ブラインド・スネークの胴が再生されたようすはまったくなかった。
<br>
さて、ヘビがいないハワイの島々の生態系を守るため、世界中でもっとも厳しい監視体制をしいているハワイの動植物検疫官たちが今最も目を光らせているのが、グアム島で大繁殖している<strong>ブラウン・ツリー・スネーク（注1）</strong>というヘビだ。このヘビは、1940～50年代にニューギニアまたはソロモン諸島から積み荷に紛れてグアム島へ上陸し、それまでヘビのいなかったグアム島で大繁殖し、グアム島原産の鳥類を含めて島に棲息していた野鳥の卵をあっというまに食い尽くし、1970年代には9種類のグアム固有種と野鳥がほぼ全滅してしまった。さらに、このやっかいなヘビは、止まることをしらずグアム島内を荒らし回り、電柱に上り電線に食いつき島中の電気を停電させ、年間数百万ドルもの被害を与えるほどになってしまった。また、ブラウン・ツリー・スネークは、廃車になった車のなかとか倉庫や物置、家の天井付近などに棲みつき、老人・子どもたちから赤ん坊に至るまで誰彼かまわず噛みつきまくり、グアムの人々の切実な問題にもなっている。困り果てたグアム政府は、このブラウン・ツリー・スネークのおいしい食べ方、料理法を募集したりして、このヘビの退治を目指したが、いまだに大した効果は上がっていないという。
<br>
<img alt="Browntreesnake.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/Browntreesnake.jpg" width="480" height="312" />
<br>
ハリケーンに自宅を吹き飛ばされるまでグアム島に住んでいたかっちゃん（川南活氏）もまた、グアム島在住時代、このヘビの餌食になっていた。夜、就寝中に突然天井から落ちてきたブラウン・ツリー・スネークに腹を噛まれたという。かっちゃんいわく「こいつらはとても攻撃的なんだよ、何たって、寝込みを襲うんだから」と。
<br>
ハワイでは、このブラウン・ツリー・スネークはグアムの基地から頻繁に飛行してくるアメリカ軍の飛行機の荷物室から何回か発見されてはいるが、いまのところ、ハワイ上陸を水際で阻止している、と検疫係り官は見ている。が、一部の専門家のあいだでは、すでにブラウン・ツリー・スネークは、オアフ島に侵入しているのではないかと、憂慮する。
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注釈は続きをクリック
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      <![CDATA[<strong>注1：</strong>
ブラウン・ツリー・スネーク（Brown Tree Snake）
学名：Boiga irregularis
日本名：ミナミ・オオガシラ
オーストラリア原産で、毒は持っていない。頭は大きくタマゴ型をしており、体長は3メートルになるが、胴は細くて長い。性格は攻撃的
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   <title>波乗りの館の近況</title>
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   <published>2008-02-05T12:38:43Z</published>
   <updated>2008-02-05T12:58:59Z</updated>
   
   <summary> 1960年代、ジェリー・ロペスと時を同じくして波乗りをはじめたポール・コーチ・ピーターソンは、1971年にフランスでロペスと再会し、波乗りの館の共同所有者となった。しかし、神経質でちょっと小うるさい”コーチ”の性格が災いしてか、いつしか波...</summary>
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   <category term="97" label="ジェリー・ロペス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="973" label="ジャック・サザーランド" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="972" label="ハワイアン・プロ・ティー厶" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="971" label="ポール・コーチ・ピーターソン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="963" label="マーク・カニングハ厶" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="merkel.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/merkel.jpg" width="480" height="340" />
<br>
1960年代、ジェリー・ロペスと時を同じくして波乗りをはじめたポール・コーチ・ピーターソンは、1971年にフランスでロペスと再会し、波乗りの館の共同所有者となった。しかし、神経質でちょっと小うるさい”コーチ”の性格が災いしてか、いつしか波乗りの館にはサーファーたちが集まらなくなり、”ハワイアン・プロ・ティー厶”も解散してしまった。この波乗りの館に愛着を持っていた共同所有者ジェリー・ロペスもまた足が遠のいていった。結局、２人は話しあい、この波乗りの館をある不動産会社に売ることに決めたのである。ポール・コーチ・ピーターソンは、以前から訪れていたカボ・サン・ルーカスに居を移し、ジェリー・ロペスもまたマウイを離れ、オレゴン州に家族ともども移り住んだ。
<br>
そして、エフカイ・ビーチパークのライフガード、マーク・カニングハ厶は現場を離れ、ライフガードを統括するチーフ・オフィサーとなり、今はホノルル・シティ＆カウンシルのオフィスで若手ライフガードの教育・育成を担当している。また、悲しいニュースもあった。ロペスも注目し、パイプ・マスターになるだろうと将来を嘱望されていたロニー・バーンズが、1990年にベルジーランドの山でモトクロス中に崖から転落死してしまった。
<br>
<img alt="bielmann.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/bielmann.jpg" width="480" height="316" />
<br>
昔、ノースショアにはジャック・サザーランドの息子以外誰も住んではいなかったとロペスが語ったノースショアも大きく変貌を遂げている。ノースの各サーフ・ポイント前のパーキング・ロットはいつも満車で、駐車スペースを探すことさえままならなくなった。しかし、つい最近、佐藤傳次郎の話によれば、ジェリー・ロペスは再びこの波乗りの館を買い戻したらしい。もし、それが本当ならロペス・ファンにとってはとても嬉しいニュースである。最近ではほとんどパイプラインで、そのライディングの雄姿を見せていないロペスが、再びカ厶バックする日がやってくるのかもしれない。
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   <title>ハワイの波の神様、ナルオラ</title>
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   <published>2008-01-30T13:17:20Z</published>
   <updated>2008-01-30T13:42:50Z</updated>
   
   <summary> 3月17日、今日もノースショア一帯はよい天気だった。バックヤードやサンセット・ポイントには色とりどりのセイルが海をクルージングしている。ウインド・サーファーが目立つようになると、ノースの波乗りのシーズンは終わりになるんだと、傳次郎がポツリ...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
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   <category term="97" label="ジェリー・ロペス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="965" label="ジェームス・ジョーンズ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="962" label="ナルオラ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="961" label="佐藤傳次郎" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="Gerry%26Sato.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/Gerry%26Sato.jpg" width="480" height="326" />
<br>
3月17日、今日もノースショア一帯はよい天気だった。バックヤードやサンセット・ポイントには色とりどりのセイルが海をクルージングしている。ウインド・サーファーが目立つようになると、ノースの波乗りのシーズンは終わりになるんだと、傳次郎がポツリと言った。北東のトレード・ウインドが強く吹きはじめるからである。
<br>
ロペスは波乗りの館にいた。サーフボードを片手に、サンセットの重鎮、ホフマンと話をしていた。マックスやローリーなど、ロペス・ファミリーが輪をつくって、波乗り談義の真っ最中だった。
<br>
ロペスは、トライ・フィン・ボードでの波乗りをファン・オブ・サーフィンと言う。隣で”コーチ”が、ロペスの足の状態を尋ねる。彼は、笑いながら「いいようだよ」と答えた後、バジー・カーボックスとトライ・フィンの話を続ける。その横では、ロニー・バーンズが耳を傾けていた。ロニー・バーンズはロペスが今一番気にかけている、18歳の若手クルー。「ハワイアン・プロ・ティー厶」では、ロペスが担当コーチなのである。
<br>
その夜、わたしとフォトグラファーの佐藤傳次郎は、ミセス・ロペス、つまり、ジェリー・ロペスのお母さんの家に、食事に招待された。ミセス・ロペスはハワイ生まれの日本人、いわゆる日系3世で、母方の故郷が新潟ということもあって、同じ新潟出身の佐藤傳次郎には人一倍親近感を持っていた。また、彼女は、芸術、特に日本の伝統芸術に深い理解を示す、グレート・マザーである。ミセス・ロペスは、あの写真、昨春、傳次郎が撮ったパイプラインのロペスのライディングのなかにハワイの波の神様、ナルオラが写っているのを見いだしていた。
<br>
<img alt="lopez1large.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/lopez1large.jpg" width="480" height="733" />
<br>
話しは1983年3月に遡（さかのぼ）る。ジェリー・ロペスが大怪我を負ったシーズンに佐藤傳次郎もまたパイプラインのインサイドで巻かれ、自分の水中カメラのハウジングで額に裂傷を負っていた。傷が癒えたロペスが波乗りを再開したのと時を同じくして、傳次郎もまた再び海に戻り、初めて入ったパイプラインでジェリー・ロペスと出会った。当然、サーファーとカメラマンのセッションがはじまり、傳次郎は幾枚かのロペスの水中写真をモノにしていた。そして、傳次郎はいつものように波乗りの館でスライド・ショーを開いた。
<br>
その時、何枚かのスライドにいろいろなハワイの神様が写っているのを発見したのがロペスの母親だった。そのうちの1枚は、ロペスがボトム・ターンをしている写真で、彼の後ろでブレイクする波のなかに、古代ポリネシアンの男の横顔がはっきりと映し出されていた。その荘厳な表情はハワイの海の神、ナルオラに間違いなかった。
<br>
このナルオラの写真は、3月22日付けのホノルル・スター・ブレティン紙夕刊に<strong>「An Eye for Wave Gods」</strong>というタイトルで海の神に関する記事が掲載され、ローカルの間で話題になった。この夕刊紙はノースショアでは午後5時にはソルド・アウトになったが、傳次郎は、自分の写真が掲載された新聞を買うことができず、その反響の大きさに驚かされていた。しかし、数日後、この記事の切り抜きが10枚近く傳次郎の手元にノース住民から寄せられた。ポスト・オフィスのおばさんからロコ・サーファーまで、佐藤傳次郎はノースショアでは幅広くファンを持つまでに生活の根を下ろしていた。
<br>
3月23日、朝から波乗りの館には、ある種の興奮と熱気が渦巻いていた。まだ大きくはないが、確かなウエスト・スエルがノースの各リーフにヒットしていたからである。エフカイ・ビーチパークのライフガード、マーク・カニングハ厶は、インテルサットから送られてきた天気図を見ながら、今シーズン最後のビッグ・ウエーブの到来を予感していた。今日はすてきなショーが見られるぞと、弾んだ声でわたしに話しかけてきた。
<br>
昼頃には8フィートほどのパイプラインが姿を現した。ローリーは、いち早くガンをとり出し、海に飛び込んでいった。朝一番の波乗りを終えていたロペスは、バジーと午後から乗るボードについて話し合っていた。
<br>
午後2時には10フィートのパイプラインが出現した。風はややサイドからの軽いオフショア。バスが1台丸々入るぐらいのルームができるほどの、ほぼ完璧なパイプラインだ。マックス・メンディアスやジェームス・ジョーンズ、マカハからはジョニー・ボーイ・ゴメスらが続々とパイプラインに入っていく。ダニエルがボディボードで真っ逆さまにボトムにドロップする。チューブを抜けた彼は、リップに乗ってエアループを成功させる。まさにサーカス・マジックなライディングだ。ボディボーダー、ナンバーワンの実力か。波乗りの館に集まっていたサーファーたちから歓声が上がった。
<br>
うねりは3～4本のセットとなり、沖のサーファーたちはセットを追って右の方に寄ってゆく。波乗りの館で見ていた”コーチ”は、彼らのポジションは間違っていると、話す。左（サーファーたちから見て右手の方角、つまりバックドア寄り）にポジションを取らなければ、今のコンディションのパイプラインはテイクオフできないよ、とつぶやく。
<br>
ジェリー・ロペス、バジー・カーボックス、ローリー・ラッセルらのセッションがはじまっていた。ローリーのライディング・フォームとジェリー・ロペスのそれは非常に似ている。しかし、ロペスのライディングは、まさにロペスそのものなのである。傳次郎は、「あんなに大きなパイプラインを笑ながらテイクオフできるのは、ロペスだけでしょう」と言う。
<br>
今シーズン最後のウエストのうねりは、今シーズン最大の波をパイプラインにもたらした。その日、1984年3月23日のことだった。
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   <title>1983年初春、ジェリー・ロペスに起きた悲惨な事故</title>
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   <published>2008-01-22T14:36:33Z</published>
   <updated>2008-01-22T14:44:14Z</updated>
   
   <summary> ジェリー・ロペスは、1983年のはじめに、パイプラインでスケッグを尻に突き刺すという大怪我を負った。全治3ヶ月とも6ヶ月とも伝えられるほどの重傷であった。彼はワイプアウトした瞬間、自分のサーフボードが飛んでくるのが分かったので、足で蹴飛ば...</summary>
   <author>
      <name>MORISHITA</name>
      
   </author>
         <category term="ノースショア波乗りの館（やかた）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="97" label="ジェリー・ロペス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="26" label="パイプライン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="PipeLine.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/PipeLine.jpg" width="480" height="328" />
<br>
ジェリー・ロペスは、1983年のはじめに、パイプラインでスケッグを尻に突き刺すという大怪我を負った。全治3ヶ月とも6ヶ月とも伝えられるほどの重傷であった。彼はワイプアウトした瞬間、自分のサーフボードが飛んでくるのが分かったので、足で蹴飛ばしたのだが、運悪くスケッグがお尻の一番柔らかい部分を突き抜け、腸までを傷つけてしまう大怪我を負ってしまった。
<br>
ジェリー・ロペスは言う。
<br>
<strong>「極限に近いパイプラインは非常に飢えている状態にある。だから、サーファーたちは、いつも海に対して何かを与えなければいけない。それは、海を敬うことであり、時としてブラッド（血）まで差し出さないといけない」</strong>と。
<br>
しかし、ロペスの傷の回復力は早かった。主治医のドクター・ダンの手早い治療もあったのだが、何よりも彼自身の強い生命力がそうさせたのであろう。ロペスは、1ヶ月近くは波乗りの館でゆっくりと治療に専念していた。しかし、パイプラインに打ち寄せる魅惑的な波を見ていると、彼の身体はうずうずとしてくるのが分かった。
<br>
ある日、いつものようにベランダに出て、彼は波を見ながら横になっていた。目の前では、手ごろな波がブレイクしていた。彼は、無性に波乗りがやりたくなってきたので、隣に座っていたコーチに相談した。

<strong>
「コーチ、波乗りをやりたいけど、だいじょうぶだろうか？」</strong>


コーチは、彼の提案に驚かされた。なぜならロペスの身体は、腸に受けた怪我のためにまだ肛門は塞がっており、そのため腸から直接便を取るためのホースが腹に開けられた穴から通され、ホースの先にはビニール袋が取り付けられていたからだ。そして、ロペスの顔を見ながら考えた。
<br>
波乗りをやりたい気持ちを抑えるのと、波乗りをやらないで傷を治すのと、どちらがロペス自身の身体に良いのかを。答えはゴー。コーチことポール・ピーターソンは、ロペスの性格を知り尽くしていた。波乗りをやりたい気持ちを抑えるほうが彼自身の身体に悪いと、結論を下した。
<br>
ジェリー・ロペスは、大便を溜めるビニール袋を腹に巻いて波乗りをはじめた。そして、そのビニール袋を海で2回もなくしてしまうという、エピソードが残った。
<br>
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   <title>1984年3月16日</title>
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   <id>tag:www.kooks.jp,2008:/doctor//5.460</id>
   
   <published>2008-01-15T12:14:11Z</published>
   <updated>2008-01-15T12:22:28Z</updated>
   
   <summary>ハワイの空は晴れ渡っていた。ワイメア・パークにあるエディ・アイカウのメモリアル碑の前では、午前10時よりエディを追悼するため、アイカウ家をはじめその関係者、そしてハワイ中のライフガードが集まってきた。 6年前（1978年）の3月16日、エデ...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[ハワイの空は晴れ渡っていた。ワイメア・パークにあるエディ・アイカウのメモリアル碑の前では、午前10時よりエディを追悼するため、アイカウ家をはじめその関係者、そしてハワイ中のライフガードが集まってきた。
<br>
6年前（1978年）の3月16日、エディ・アイカウら16名のクルーを乗せたホクレア号がタヒチに向けて出航した。しかし、その夜、大きなストームに巻き込まれ、ホクレア号は遭難してしまった。SOS信号などでホクレア号は救助を要請したのだが、船と飛行機からの捜索は荒れ狂う海と暗闇のなかで困難を極めた。翌17日の午前、大波と強風によって転覆したホクレア号の船体はさらに沈みはじめ、船底の縁につかまりながら救助を待つ乗組員の体力は限界に達していた。エディ・アイカウはライフガードとしてこのホクレア号に乗り組んでいたので、自分の職責を果たすのは今しかないと決断した。彼は、一番近いラナイ島まで12マイル（20km弱）、ホクレア号に積んでいたレスキュー用サーフボードでなら5時間で行けるだろうと予測し、自分が救助を呼びに行くと申し出た。ホクレア号の船長らは、彼の提案した可能性について協議し、エディなら行ける（Eddie Would Go）だろうと結論を下した。エディ・アイカウは、ストロボ・ライトを取り付けたサーフボードのリーシュ・コードを足首に結び、首にはオレンジを数個、腰にライフ・ジャケットを躊躇しながら結びつけ、出発した。何人かの乗組員は、エディ・アイカウがパドリングに邪魔になるためライフ・ジャケットを投げ捨てて、力強くニー・パドリングしながら波間に消えていくのを見ていた。それがエディ・アイカウの最後の姿となった。
<br>
こうして、勇敢なエディを偲んで、エディのゆかりの地、ワイメア・ベイにメモリアル碑が建てられていた。エディが行方不明になったから6年後のこの日初めて、偉大なハワイの海の男のためにライフガードたちはワイメア・ベイでセレモニーを催したのであった。
<br>
ライフガードたちは、メモリアル碑に献花し、祈りを捧げた。その後、彼らは、足ヒレを持ってベイに入り、ポイントまで泳ぎ、花を流し、再び祈った。この日、ノースショアは3〜4フィートのうねりが到着していたが、ベイは大き揺蕩（たゆた）うだけで、波はブレイクすることはなかった。
<br>
エフカイ・ビーチパークのライフガード、マーク・カニングハ厶もまたそのなかの一人として参加した。彼は、1982、1983年のボディ・サーフィンのチャンピオンに輝いた優秀な海の男であり、また、かつてエディがそうであったようにライフガードであることに誇りを持っていた。マークは、エディをハワイの英雄として尊敬していたし、かつて一緒に仕事をした仲間であったことにも誇りを持っていた。
<br>
マーク・カニングハ厶は、子どもの頃からライフガードに憧れていた。エディ・アイカウのように勇猛果敢なハワイアン・スピリットを持った海の男になりたかった。式典が終わった後、マーク・カニングハ厶は、いつもの職場、エフカイ・ビーチパークのライフガード・タワーに戻った。
<br>
エフカイ・ビーチパークは春の太陽が充満し、ゆっくりとした時が流れていた。この季節は、観光客もそしてサーファーも少ない。目が離せない子どもたちも学校へ行っていて、ここにはいない。あれほど激しかったノースの波も優しくビーチに打ち寄せている。海底のリーフには砂がかぶさり、サンド・バアを形成し、澄みきった海はエメラルド・グリーンのタイルを貼っている。
<br>
マーク・カニングハ厶は、きらきらと光り輝く平和な海をのんびり見つめていた。彼は、やはり春が一番好きだと、言う。冬のシーズンは、毎日が緊張の連続である。海外から大勢のサーファーたちがノースの波を挑戦しにやって来る。そして、それを見にさらに多くの観光客が。サーフィン誌のフォトグラファーのカメラの砲列を前に、サーファーたちは実力以上の演技を試す。結果は、自然の猛威の前に傷つく。時として15フィートを超えるベイに入り、ライフガードたちは彼らをレスキューしなければいけない。
<br>
でも、そんなノースショアでライフガードをやることができて、とても幸せであると、彼らは言う。海の男として、本物の実力が要求されるノースショアは、ライフガード冥利（みょうり）につきる場所でもある。プロ・サーファーたちも、そんなライフガードの役割をよく知っているし、お互い暗黙のうちに理解しあっている。彼らは、ブラと呼びあう兄弟なのである。
<br>
<img alt="Gerry_01.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/Gerry_01.jpg" width="480" height="326" />
<br>
ジェリー・ロペスは、1月に若いサーファーにドロップ・インされ、30数針の裂傷を足に負った。その傷も癒え、マウイからここ波乗りの館にやってきた。ロペスが戻ってきたことを知らされたポール・”コーチ”・ピーターソンをはじめとして、ローリー・ラッセル、主治医のドクター・ダン、バテンス・カラヒオカラニ、バジー・カーボックス、ロニー・バーンズら、ロペス・ファミリーが大集合して歓迎した。
<br>
さっそく、ロペスは3〜4フィートのパイプラインに、エリック・アラカワがプレゼントしてくれたトライ・フィンで久しぶりの波乗りを楽しんだ。海から上がってきたロペスは、足の傷の具合を調べながら、昨年の怪我の様子をわたしに話しはじめた。
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   <title>波乗りの館（やかた）、パイプライン・ハウス</title>
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   <published>2008-01-07T02:27:00Z</published>
   <updated>2008-02-05T13:03:01Z</updated>
   
   <summary>あのパイプラインの入り口にある3階建ての家を知っているだろうか？ その家は、エフカイ・ビーチに面したオーシャン・フロントにあり、パイプラインを一望にすることができる。建物の回りは高い木の塀（へい）で囲まれており、外からはなかの様子を伺いしる...</summary>
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   <category term="97" label="ジェリー・ロペス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="847" label="デレック・ホー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="943" label="ハンス・へデマン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="942" label="バジー・カーボックス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="941" label="ポール・ピーターソン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="946" label="ローリー・ラッセル" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[あのパイプラインの入り口にある3階建ての家を知っているだろうか？
<br>
その家は、エフカイ・ビーチに面したオーシャン・フロントにあり、パイプラインを一望にすることができる。建物の回りは高い木の塀（へい）で囲まれており、外からはなかの様子を伺いしることができない。1階はフローリングの広いリビング・ルームになっていて、庭へと続く階段状の広いウッド・デッキのベランダがついている。コンクリートで固められた前庭には、南の島の太陽を遮る背の高いヤシの木が数本、ビーチとの境に植えられ、椅子と一体になった長方形の木製ベンチが2セットと、海への出入り口の脇にシャワーが完備されている。2階と3階には、合計5つの部屋があり、そのどの部屋からも正面にパイプラインが臨めるように設計されている。冬、ノースショアの波乗りのシーズンがはじまると、世界のトップ・クラスのサーファーたちやサーフィン誌のエディター、フォトグラファーが訪れて、大賑わいになるこの家は、サーファーたちの間でパイプライン・ハウスとも呼ばれる波乗りの館である。
<br>
<img alt="Gerry%26Ronnie-Burns.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/Gerry%26Ronnie-Burns.jpg" width="480" height="324" />
<br>
この波乗りの館の主（あるじ）がジェリー・ロペスとポール・ピーターソンであった。1980年、ロペスは、サーフ・ビジネスからリタイアしたあと、その土地の所有者であったポール・ピーターソンとともに共同で3階建ての家に建て替えたのである。
<br>
当時、ジェリー・ロペスはもうこのビジネスにはうんざりしていたし、彼はサーファーであることの証（あかし）として、パイプラインが見える家に住みたいという長年の念願を叶えたのであった。
<br>
<img alt="Rory-Russell.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/Rory-Russell.jpg" width="480" height="325" />
<br>
その後1983年、この家の共同所有者ポール・ピーターソン、愛称”コーチ”とともにロペスは、ハワイの第一線のプロ・サーファーたちを集めて、”ハワイアン・プロ・ティーム”を作った。このハワイアン・プロ・ティームは、マイケル・ホー、デレック・ホー、バジー・カーボックス、ハンス・へデマン、バテンス・カラヒオカラニらと、若手ロニー・バーンズ、そして1974年のパイプ・マスター、ローリー・ラッセルというハワイを代表するサーファーたちで構成されていた。
<br>
それまでハワイアン・サーファーのシンボルとして存在していたジェリー・ロペスは、彼を慕って集まる彼らサーファーたちに自分の波乗り哲学を伝授しはじめた。彼らサーファーたちが集うこの家は、まさしく波乗りの館として機能を果たしていた。
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   <title>トリプル・クラウン・オブ・サーフィンという由緒あるサーフィン大会</title>
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   <published>2007-12-18T15:18:18Z</published>
   <updated>2007-12-18T16:06:52Z</updated>
   
   <summary> トリプル・クラウン・オブ・サーフィン（以下トリプル・クラウン）は、その名前が示す通り、ノースショアで行われる3つの大会の総称で、3つの王冠を意味している。このサーフィン・コンテストは、1983年にフレッド・ヘミングスとランディ・ラリックに...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
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   <category term="918" label="フレッド・ウイリアムソン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="499" label="フレッド・ヘミングス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="916" label="ランディ・ラリック" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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      <![CDATA[<img alt="branding.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/branding.jpg" width="480" height="298" />
<br>
<strong>トリプル・クラウン・オブ・サーフィン</strong>（以下トリプル・クラウン）は、その名前が示す通り、ノースショアで行われる3つの大会の総称で、3つの王冠を意味している。このサーフィン・コンテストは、1983年にフレッド・ヘミングスとランディ・ラリックによってはじめられた。フレッド・ヘミングスは、1968年プエルト・リコで行われたワールドカップ・サーフィン・コンテストの第1回世界チャンピオンで、1995年には『The Soul of Surfing is Hawaiian』という著書を出版している、サーフィン界の草分け的存在の人だ。ランディ・ラリックは、ノースショア在住のシェーパーであり、やはりプロ・サーファーの初期のメンバーの一人だ。現在でもこの3つのコンテストの陣頭指揮を取っているランディ・ラリックは、トリプル・クラウンがはじめられた当時のいきさつについて、次のように語る。
<br><strong>
「当時、IPSというプロ・サーフィン協会があったが、1983年にASPに組織替えされた。その時、新しい冠スポンサーの要求でツアーの最終戦をハワイからオーストラリアに変更されてしまった。プロ・サーフィンの世界選手権の最終戦をサーフィンの故郷であるハワイでやることに意義があったわけだし、それゆえにハワイのサーフィン・コンテストは、ビッグ・ウエーブでの大会として注目を集めてきた。最終戦がオーストラリアに移ってしまうと、ハワイでのコンテストは影が薄くなってしまうことを恐れたフレッド・ヘミングスは、私に相談してきたんだ。それで、ハワイ・シリーズとしてやってきたハレイヴァ・アリイ・ビーチのハワイアン・プロ、サンセット・ビーチのワールド・カップ、そしてエフカイ・ビーチパークのパイプ・マスターズの3つのコンテストをトリプル・クラウンと総称して、ハワイだけの王座を決めるシリーズ戦として再出発させることを決めたんだ。これが今のトリプル・クラウンの原点なんだ。」</strong>
<br>
トリプル・クラウンは、こうしてASPのツアーに組み込まれたものの、ハワイだけの王座を決める3試合のシリーズ戦として、1983年より新たにスタートすることになった。その後、1988年にフレッド・ヘミングスはハワイの州知事選挙に出馬する資金捻出のために、トリプル・クラウンの権利をサーファーではないハワイの実業家のフレッド・ウイリアムソンに売却するが、サーフィンの知識がまったくない彼に代わり、ランディ・ラリックは引き続きトリプル・クラウンの面倒を見ることになる。
<br>
現在でも、トリプル・クラウンは、毎年11月12日から12月20日まで約40日間の日程で、「ハワイアン・プロ」がハレイヴァ・アリイ・ビーチ、「ワールド・カップ」がサンセット・ビーチ、「パイプ・マスター」がエフカイ・ビーチでそれぞれ行われている。1998年からASPの試合方式が変わり、トリプル・クラウンは、世界のトップ44名のサーファーが出場するWCTの最終戦であるパイプ・マスターズ、そしてWQSの最終戦であるワールド・カップという2つのサーキットを混ぜ合わせたASPのハワイ・シリーズとして続けられている。
<br>
この3つのコンテストに出場するために、アメリカ本土をはじめ、日本、オーストラリア、南アフリカやヨーロッパ（主にフランス、スペイン、ポルトガルと英国）、そしてブラジルやプエルト・リコなどからプロ・サーファーが大挙やってくる。1996年度より導入されたインターネット上での大会生中継や、各ヒートの勝ち負けが瞬時に判定できるコンピュータ化されたジャッジ・システムなど、ほぼ完璧にオーガナイズされたこの規模の国際大会となると、会場設営や人件費、賞金を含めて大会経費として、3大会合わせて100万ドル近いお金が必要、とコンテスト関係者は語る。
<br>
1997年、コンテストを主催していたフレッド・ウイリアムソンは、カリフォルニア州サンタフェ・スプリングスに本社を置くシューズ・メーカーのバンズ社にこのトリプル・クラウンの権利を売却し、話題になった。フレッド・ウイリアムソンの会社は、今までトリプル・クラウンを開催するため、年に100万ドル近くの資金を調達しなければならず、ビジネスとして売り時であったことには違いない。第1回のトリプル・クラウン以来、コンテスト・ディレクターとして手腕を奮ったランディ・ラリックは、バンズ社からエグゼクティブ・ディレクターとして引き続き指揮を取るよう要請されたのである。
<br>
この興行権買収の背景には、ライセンスの取得という経済的側面を持っている。なかなか儲かりにくいコンテストから上がる収益を目的にしたものではなく、毎年世界有数のビッグ・ウエーブで行われるサーフィン・コンテスト「トリプル・クラウン・オブ・サーフィン」の抜群の知名度を商品展開に利用するライセンス生産にあるわけだ。バンズ社では、さっそくトリプル・クラウン・ブランドとして自社のクロージングなどで展開している。
<br>
バンズ社はスケートボード用シューズから出発した1966年創立の比較的新しい企業だが、スケートボードやサーフィン、スノーボードといったニュー・スポーツ（アクティブ・スポーツとも呼ばれる）の普及とストリート系ファッションの流行により業績を伸ばしている。バンズ社は、すでに1997年度よりトリプル・クラウンという名称を生かして「トリプル・クラウン・オブ・スケートボーディング」という大会をアメリカ本土で開催している。
<br>
このようなサーフィンというスポーツを商品や企業のイメージ・アップやブランドのひとつとして展開する企業が最近目につく。10年ほど前には、スキー・メーカーのＫ２社がアメリカや日本などのサーフィン専門誌に1ページの広告を掲載し、世界中のサーファーに注目を集めた。ビッグ・ウエーブ・ライディング・コンテストと銘打たれた広告は、世界一大きな波に乗ったサーファーにＫ２社は、賞金5万ドルを差し上げるという内容のもので、証拠として波のサイズが予測できるライディング写真（カメラマンには賞金5,000ドル）の提出を義務づけ、サーファーは波のボトムまで下りていなければならないなど具体的に写真コンテストの応募要項が掲載された。
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   <title>ノースショアで行われるコンテスト数</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kooks.jp/doctor/cat45/post_39.php" />
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   <published>2007-12-11T10:50:44Z</published>
   <updated>2007-12-11T11:12:21Z</updated>
   
   <summary> 冬の間、ノースショアで行われるサーフィンのコンテスト数はいったいどのくらいあるのだろうか。あるとき、わたしは地元で発行されている隔週刊誌「ノースショア・ニュース」に、毎年秋になると掲載されるウインター・シーズンのサーフィン・コンテスト・カ...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
   </author>
         <category term="ノースショア、冬の陣" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
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   <category term="872" label="エクセル・プロ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="876" label="エディ・アイカウ・クイックシルバー・ビッグウエーブ・インビテーショナル" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="866" label="ダ・フイ・バックドア・シュートアウト" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="877" label="ハレイヴァ・インターナショナルオープン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="883" label="フイ・オ・ヘエナル・エクスプレッション・セッション" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="865" label="メネフネ・サーフコンテスト" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="887" label="HASA" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="868" label="HPAC" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="882" label="HPACパイプライン・プロ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="885" label="NSSA" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="874" label="WCT" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="870" label="WQSシリーズ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="photo2.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/photo2.jpg" width="480" height="236" />
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冬の間、ノースショアで行われるサーフィンのコンテスト数はいったいどのくらいあるのだろうか。あるとき、わたしは地元で発行されている隔週刊誌「ノースショア・ニュース」に、毎年秋になると掲載されるウインター・シーズンのサーフィン・コンテスト・カレンダーで調べてみた。　
<br>
まずノースショアのサーフィン大会のオープニング・ゲームは、可愛らしい子どもの「メネフネ・サーフコンテスト」ではじまり、10月11日と12日の週末にハレイヴァ・アリイ・ビーチで行われる。続いて、ハレイヴァ・インターナショナルと開催日がかさなってしまった「ダ・フイ・バックドア・シュートアウト」（このコンテストは2回開催された）が10月20日から10月28日までバックドアで、その後<strong>HPAC（注１）</strong>の最終戦となるASPの<strong>WQSシリーズ（注2）ファースト・スター（注3）</strong>「エクセル・プロ」が10月29日より11月10日までサンセット・ビーチで、そして、その後、11月12日から12月20日までの間、ASP公認「トリプル・クラウン・オブ・サーフィン」がスタート。「トリプル・クラウン・オブ・サーフィン」緒戦は、WQSスリースター「ハワイアン・プロ」が11月12日から11月23日までハレイヴァ・アリイ・ビーチで、続いて「ワールド・カップ」が11月24日から12月6日までサンセット・ビーチで、そして最終戦はASPの<strong>WCT（注4）</strong>の最終戦でもある「パイプ・マスターズ」が12月8日から12月20日までパイプラインで行われる。また、同時平行してASP公認である「エディ・アイカウ・クイックシルバー・ビッグウエーブ・インビテーショナル」がワイメアベイで12月3日から2月28日まで、20フィートオーバーの波を待って88日間という長いウエーティングに入る。このコンテストも波次第で開催されるかどうかが決まる。12月26日から年開け1月4日まで「ハレイヴァ・インターナショナルオープン」がハレイヴァ・アリイ・ビーチである。
<br>
サーフィンのコンテストは「エディ・アイカウ・ビッグウエーブ」を除いて、大きな大会はこれで終りとなるが、年が明けて1月5日から13日まで、「ボディボード・チャンピオンシップ」というボディボードのコンテストがパイプラインで行われ、続いて1月28日から2月1日まで同じパイプラインで「パイプライン・ボディサーフィン・クラッシック」と2月2日から6日まで「ウイメンズ・ワールド・ボデイボード・チャンピオンシップ」が行われる。その後、またサーフィンのコンテストHPAC初戦WQSファースト・スター「HPACパイプライン・プロ」が2月2日から3月1日までパイプラインで、3月2日から20日まで「フイ・オ・ヘエナル・エクスプレッション・セッション」がサンセット・ビーチである。また、<strong>NSSA（注5）</strong>主催のサーフコンテストが2回、<strong>HASA（注6）</strong>主催のサーフコンテストが3回開催される。こうして、この年には合計22回のコンテストがノースショアで開催されたのだが、これは毎週ノースショアのどこかのビーチに行けば、コンテストが見ることができる計算になる。噂に違わず、ノースショアはサーフコンテストの宝庫なのである。
<br>
しかし、ここ最近ノースショアで行われる各種コンテストの多さに辟易（へきえき）としていた地元住民、とりわけコンテストの期間中サーフ・ポントが使えない地元サーファーの不満は大きい。このように毎週のようにノースショアのどこかでコンテストが行われるようになった状況を踏まえて、コンテスト開催時にビーチの使用許可を与えるハワイ州のパーク＆レクレーション課とホノルル市郡、ランディ・ラリックなどコンテストの主催者、そしてハレイヴァとエフカイ・ビーチ、サンセット・ビーチから3人ずつ地元サーファーの代表として集まり会合を開いた。それぞれの利益代表者たちは、ノースショア・サーフコミティという名称でハレイヴァのサーフセンターで定期的にコンテストの在り方など協議を続けている。
<br>
こうして、ノースショアで行われるサーフィンの大会は、さまざまな規制がつけられるようになった。たとえば、同じ日に2ケ所でコンテストは行わない。コンテストは朝の8時から午後4時までの間に行う。マン・オン・マンは行わない（パイプ・マスターは例外処置）など、コンテストの運営に支障が出るような厳しい規制が決められたのである。
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      <![CDATA[<strong>注１：</strong>
HPAC：Hawaiian Pro-Am Circuit of Surfing

<strong>注2：</strong>
WQS：World Qualifying Series

<strong>注3：</strong>
ファースト・スター（First Star）、大会の賞金総額によって、ランク分けされている。ファースト・スターは、最も低いグレードの大会で、獲得ポイントも最も低い。

<strong>注4：</strong>
WCT：World Chanpionship Tour

<strong>注5：</strong>
NSSA：National Scholastic Surfing Association

<strong>注6：</strong>
HASA：Hawaii Amateur Surfing Association
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   </content>
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   <title>ノースショア、冬の陣</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kooks.jp/doctor/cat45/post_38.php" />
   <id>tag:www.kooks.jp,2007:/doctor//5.381</id>
   
   <published>2007-12-07T07:43:17Z</published>
   <updated>2007-12-07T07:56:44Z</updated>
   
   <summary> 日本が西高東低の気圧配置になる冬、遠く離れた太平洋上の島々、ハワイ各島の北西海岸には北寄りの西うねりが続々と押し寄せる。この西高東低の気圧配置において重要なのは、いうまでもなく東の低気圧なのだが、東低の等圧線の間隔が狭ければ狭いほど（日本...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
   </author>
         <category term="ノースショア、冬の陣" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="197" label="ノースショア" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="860" label="ビッグウェーブ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="photo1.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/photo1.jpg" width="480" height="322" />
<br>
日本が西高東低の気圧配置になる冬、遠く離れた太平洋上の島々、ハワイ各島の北西海岸には北寄りの西うねりが続々と押し寄せる。この西高東低の気圧配置において重要なのは、いうまでもなく東の低気圧なのだが、東低の等圧線の間隔が狭ければ狭いほど（日本の天気図上では右上）、それは強力な低気圧を意味し、またシベリア方面から張り出した西の高気圧も強く、日本は寒いということになる。
<br>
では、うねりはどう関係があるのか。それは、西から東へ移動する低気圧が日本列島を通り、さらに発達を続けながらアリューシャン列島に到達し、そこで停滞する。この低気圧の墓場と化した太平洋の北東の外れからうねりはグランド・スエルとなってノースショアに到達する。こうして、ノースショアのサーファーばかりではなく、サーフィン・カメラマン、コンテストの関係者たちは、アメリカ海軍のホームページで太平洋地区の３時間毎の波高予測のチャート図を参考に、今日はどこのサーフ・ポイントがいいのかとか、コンテストをはじめるかどうかなど、その日一日のサーフィンに関するさまざまなアクションを決定することを日課としている。
<br>
一般的に、ハワイ各島の北西海岸には日本が寒波に襲われた5日から1週間後に第1波のビッグ・ウエーブが押し寄せてくる。
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   <title>サーフィン世界チャンピオンの母</title>
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   <id>tag:www.kooks.jp,2007:/doctor//5.358</id>
   
   <published>2007-11-20T14:55:22Z</published>
   <updated>2007-11-20T15:25:20Z</updated>
   
   <summary> 毎年11月から12月にかけて、ノースショアでは3つの大きなサーフィン大会が開かれる。トリプル・クラウン・オブ・サーフィン（注1）と呼ばれるこれらの大会が行われるハレイワ・アリイ・ビーチ、サンセット・ビーチ、エフカイ・ビーチパークの3つのビ...</summary>
   <author>
      <name>MORISHITA</name>
      
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         <category term="サーフィン世界チャンピオンの母" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="850" label="ウォーター・パトロール" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="848" label="ジョリーン・ホー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="847" label="デレック・ホー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="846" label="トリプル・クラウン・オブ・サーフィン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="851" label="ハオリ・リーブス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="98" label="マイケル・ホー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="849" label="ワイマナロ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="199" label="IPS" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="derekho.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/derekho.jpg" width="480" height="310" />
<br>
毎年11月から12月にかけて、ノースショアでは3つの大きなサーフィン大会が開かれる。<strong>トリプル・クラウン・オブ・サーフィン（注1）</strong>と呼ばれるこれらの大会が行われるハレイワ・アリイ・ビーチ、サンセット・ビーチ、エフカイ・ビーチパークの3つのビーチには、大会直前に運営本部のキャラバンが設置される。このキャラバンのひとつにメディア担当の移動トレーラー、通称プレス・ルームが置かれている。プレス・ルームの仕事は、アメリカ本土をはじめ、フランスやオーストラリア、ブラジル、日本などのサーフィン専門誌や各種の出版社、新聞社、TV局などから派遣されてノースショアへ取材にやってきたカメラマンや記者たちに対して、大会の概要、出場選手たちのプロフィール、スポンサー企業のパブリシティ・キット、大会Ｔシャツ、そしてプレス・カードの発行をはじめ、その日の全試合のヒートと勝敗（ジャッジ・シート）、選手やジャッジのコメントなども毎日随時配付しなければいけないわけだが、1996年からはインターネット上でのトリプル・クラウン・オブ・サーフィンの大会生中継の現場での制作が加わったものだから、コンテストがはじまるとこの小さなプレス・ルームのなかは、まさに戦場と化してしまう。
<br>
あるとき、わたしがそのプレス・ルームを覗いてみると、若いプロ・サーファーやジャーナリストたちからジョリーンと呼ばれ親しまれている小柄な初老の女性が、年齢が2回り以上も違う若いスタッフたちに混じっててきぱきと仕事をこなしていた。サーフィンに対する豊かな見識もさることながら、彼女が1993年度の世界チャンピオンに輝いた<strong>デレック・ホー（注2）</strong>のお母さんであることは、ほとんど知られていなかった。
<br>
わたしと<strong>ジョリーン・ホー</strong>とは、ププケアに住む友人の家のパーティで知り合った。もともと、サンセット・ビーチの住宅街に住むマイケル・ホーや、ププケアの丘の中腹に母親とともに暮らすデレックとは、お互いの娘と息子たちがサンセット・ビーチ小学校のクラスメートということもあって、親しく言葉を交わす機会がたびたびあったのだが、マイケルやデレックの母親ジョリーンと話すのは、その時がはじめてであった。その後、日本航空の機内誌を制作している代理店からハワイのサーフィンの原稿を依頼され、「サーフィン世界チャンピオンの母」というタイトルでジョリーン・ホーを取材し、記事を書いたのだが、それ以来、マイケルやデレック以上に、母親のジョリーンとは、散歩の途中やビーチで、そしてトレーラー・ハウスで親しく会話するようになった。わたしの興味は、なぜアメリカ西海岸に住むひとりの女子大生がハワイのビーチ・ボーイと恋に落ちたのか？　そして、どうやって女手ひとつで子どもたちを世界トップクラスのサーファーに育て上げたのか？ということであった。
<br>
オレゴン州ポートランドで生まれ育ったジョリーン・グレイが初めてハワイを訪れたのは、彼女がオレゴン州立大学の1年生の夏の時だ。ハワイ州立大学で行われたサマー・キャンプで8週間滞在したが、このときにハワイに一目ぼれしてしまった。一度オレゴンに戻ったジョリーンは、オレゴン州立大学を2年で切り上げて、彼女いわく<strong>「ハワイに帰ってきた」</strong>という。
<br>
<strong>「初めてハワイに来たのは1952年の夏、19歳のときだったわ。ハワイに来るなり、あっ、ここが私の故郷なんだって、直感したの。ワイキキで行われたサマー・キャンプは、青春の最高の思い出になったの。サーフィンやカヌー、それにフラも習ったのよ。それで、一度オレゴンに戻って2年生で大学を辞めて再びハワイにやってきたわけ。それっきりハワイよ。」</strong>
<br>
ホー・ファミリーは、<strong>ワイマナロ（注3）</strong>では名門のウォーター・ファミリーだった。ジョリーンの夫であったエドモンドは、中国人とハワイアンの混血で、12人兄弟の末っ子。チコというニックネームで呼ばれていた彼もまた有名なビーチ・ボーイだったという。
<br>
<strong>「名前はエドモンドというんだけど、友達はチコって呼んでいたわ、チコ、チコ・ホーってね。彼は小さくてとてもすばしっこかったの。フィッシングにダイビング、サーフィン、どれをとっても一流だったわ。彼がダイビング中の事故で死んだのは、デレックが18歳の時だった。チコは、友達と一緒にワイマナロの海に潜っていて、それっきり彼は上がってこなかったの。」</strong>
<br>
ジョリーン・グレイは、エドモンド・ホーと結婚し、ワイマナロに家庭を持った。そして、彼女自身もクイーン・リリウオカラニ・ホテルでライフ・ガードをしながら、デボラ、マイケル、メリーアン、クウモミ、デレックの5人の子どもたちを産み育てた。
<br>
<strong>「チコと結婚してからワイマナロに住んでいたのよ。あそこは住むにはこの島で最高の場所よ。漁やダイビングをして取ってきた海の幸を浜辺でバーベキューして、サーフィンしたり泳いだり。でも、チコの家はビッグ・ファミリーでしょう。そのなかで私1人が白人で、おしゅうとめさんやおばさんが中国語でしょう。コミュニケーションが取れなかったけど、別段いやっというわけじゃなかったわ。ワイキキでウォーター・パトロール（注4）の仕事をしながら、子どもを育てたの。一番上がデボラ。彼女は今カウアイ島に住んでいるの。彼女のファミリーも全員サーフィンをやるわ。15歳になるデボラの息子は、今度プロ・サーファーとしてデビューするのよ。それから、2番目が男の子でマイケル（注5）。彼はいわゆるプロ・サーファーのパイオニアよね。IPS（注6）の設立にも係わっていたし、コンテストの数やプロ・サーファーの賞金額など、プロ・サーファーの向上にいつも努めていたわ。デレックは、兄が引いた路線にただ乗っかっているだけ。3番目がメリーアン、4番目がクウモミ、そして末っ子がデレックね。今でもコンテストで外国に遠征していても、デレックは必ず電話をよこすわ。私には今では5人の子どもと10人の孫がいるってわけ。」</strong>
<br>
ジョリーンの教育方針は、学問は二の次で、子どもたち全員一人前のウォーター・ファミリーの一員として仕立て上げることにあったようだ。子どもたちは毎日のように海で遊び、大きくなっていった。そして、長男のマイケルがサーフィンのコンテストに出場するようになると、彼女はステージ・ママのようにコンテストに付き添い、アドバイスを与えた。
<br>
<img alt="michaelho.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/michaelho.jpg" width="480" height="312" />
<br>
<strong>「子どもたちはいつのまのかサーフィンをやっていたわ。でも、当時プロ・サーファーで食べていけるとは本当に夢にも思わなかった。マイケルのときもデレックのときもサーフィンの大会に出るときは必ず見に行ったの。息子たちの実力がどの程度か見てみたいし、試合が終わった後でも、ライディングなどについて話し合ったりしていたわ。これはハワイアン・スタイルなのよね、きっと。」</strong>
<br>
元世界チャンピオンとはいえ、デレック・ホーは、ホーム・グラウンドの海では今でもわがままなサーファーであることは間違いない。話しが、1996年の冬にパイプラインの海のなかで起きたデレックとハオリ・リーブスの衝突の一件に及ぶと、彼女は、やんちゃ坊主を持った母親と同じように相手の名前を忘れずにしっかりと言いながら、語りはじめた。
<br>
<strong>「ほらね、何か忘れていたでしょう。そう、ハオリ・リーブス（注7）との一件ね。デレックはかりにも世界チャンピオンなった男なんだから、ケンカざたになるなんてよくないわよね。それにスポンサーにも迷惑をかけることになるし。でも、末っ子っていうのはいつもラスカル（悪ガキ）、それも最も大変なラスカルなのよね。」</strong>
<br>
ジョリーン・ホーは、今でも毎日のように海に行くという。時にはマイケルやデレックを誘って波乗りに行くときもあるそうだ。それが彼女の若さを保つ秘訣なのかもしれない。わたしが、ジョリーンに生年月日を尋ねたところ、「女に年齢を聞くなんてエチケット違反よ」と、即座に笑ながらやんわり拒否されてしまった。何人もの孫を持つおばあさんではあるが、常に女性であることも忘れていないキュートな一面も持ち合わせていた。話題が自らのサーフィンに及ぶと、ジョリーンは眼をきらきら輝かしながら話しはじめるのであった。
<br>
<strong>「サーフボードは、マイケルやデレックとおなじように、エリック・アラカワが削ってくれた8’6”のロングボードと9フィートのタンカー。波のサイズは2〜4フィートが私のセイフティ・サイズね。でも、ときどき大きいサイズの波にチャレンジすることもあるのよ。マイケルとデレックは7つ歳が離れているからか、とても仲のいい兄弟なのよ。今でも2人でつるんでサーフィンしているし、私もときどき子どもたちとサーフィンするのよ。これがハワイのウォーター・ファミリーのヘルシー・ライフね。」</strong>
<br>
ハワイの人々、とりわけノースショアに住む人々にとって、サーフィンは生活に根ざしたものであり、そういったサーフィン文化の熟成度合が世界チャンピオンを生む土壌になっているのだろう。そして、ジョリーン・ホーにとってサーフィン世界チャンピオンの母であることは、今まで送ってきたウォーター・ファミリーの生活のひとつの成果に過ぎないことに違いない。
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      <![CDATA[<br>
<strong>注1：</strong>
1983年、IPS（International Professional Surfing）がASP（Association of Surfing Profession）という名前に改組されたとき、ASPの新しいスポンサーの要求でツアー最終戦がハワイからオーストラリアに変更されてしまった（1997年には、ASPツアー最終戦はトリプル・クラウン・オブ・サーフィングに戻っている）。フレッド・ヘミングスは、ランディ・ラリックに相談して、それまでツアー最終戦だったハワイ・シリーズ（ハレイヴァ・アリイ・ビーチで行われるハワイアン・プロ、サンセット・ビーチで行われるワールド・カップ、そしてエフカイ・ビーチパークで行われるパイプ・マスターズ）の3つのコンテストを「トリプル・クラウン・オブ・サーフィン（Triple Crown of Surfing）」という名称にして再出発させた。

<strong>注2：</strong>
デレック・ホーは、ハワイで初めての世界チャンピオン。主な戦歴／ASP世界レーティング：1985年10位、1986年13位、1987年10位、1988年4位、1989年2位、1990年6位、1991年4位、1993年1位、1995年12位
優勝：ワールド・カップ：1990年チャンピオン／パイプ・マスターズ：1986、1993年チャンピオン／トリプル・クラウン：1984、1986、1989、1990年チャンピオン

<strong>注3：</strong>
ワイマーナロ（Waimanalo）は、オアフ島の東側に位置するワイマナロ山脈の山裾の海岸線一帯。ハワイ語WAI+MANALOは、持ち運べる飲み水という意味。湿った貿易風がワイマナロ山脈に当り、その東側はいつも雲ができ、山ひだに広がる谷間の裾野は、いつも雨が降る多湿地帯だ。タヒチからの移住者は、故郷のタヒチと気候や地形が似ているワイマナロやビッグ・アイランドのワイピオ渓谷などの雨の多い島の東側を好んで住みついた。いわば、ハワイアンの故郷でもある。サモアン系の移住者は、いつもドライで太陽が照り付ける島の西側マカハなどに住みついているのは、やはり、天候や地形が故郷に似ているからだ。

<strong>注4：</strong>
ウォーター・パトロールの主な仕事は、ホテルなどのプールのライフ・ガード、サーフィンやカヌーのインストラークター、また各種ウオーター・スポーツのコンテストでの選手や報道カメラマンの救助などの海上サポート。

<strong>注5：</strong>
マイケル・ホーの主な戦歴：ASP世界レーティング：1979年7位、1980年7位、1981年9位、1982年8位、1983年11位、1984年11位、1985年13位。
優勝：ワールド・カップ：1983、1984、1985年チャンピオン／パイプ・マスターズ：1982年チャンピオン／トリプル・クラウン：1983、1985年チャンピオン、1997年度にはWCTグレード・ワンのコンテスト「パイプ・マスターズ」ではトライアルから出場し、優勝こそは逃したが、2位というトリプル・クラウン・オブ・サーフィン史上に残る快挙を42歳で成し遂げた。

<strong>注6：</strong>
IPS（International Professional Surfing）は、フレッド・ヘミングスやランディ・ラリックらが中心となって1976年に設立された、プロ・サーファーの団体。サーフィンのプロ・コンテストは、このIPSによって組織・運営されていた。1983年には、ASPという団体に改組され、現在に至っている。プロ・コンテストは、WCT（World Championship Tour）サーキットとWQS（World Qualifying Series）サーキットという2つのステージに別れている。WCTの大会は名前のとおり世界選手権ツアーで、各試合は前年度世界ランキング44位までのプロ・サーファーがシードされ、トライアルから勝ち上がった六名の選手によって本戦が争われる。トップ44名のプロ・サーファーたちは、年間スケジュールに沿ってオーストラリ、日本、インドネシア、リユニオン、南アフリカ、アメリカ西海岸、フランス、ポルトガル、ブラジル、そして最終戦のハワイと世界各地を転戦する（九八年度のスケジュールは表一を参照）。WCTを目指すにはまず世界各地で行われるWQSの大会に出場し、WQSのトータル・ランキングでトップ16に入ると、晴れてWCT44人のトップ・プロ・サーファーの仲間入りとなる。WCT入りをすると、サーキットの全試合出場が義務づけられ、怪我などのやむをえない事情以外で出場を放棄すると罰金を選手に課せられる。

<strong>注7：</strong>
ハオリ・リーブスは、デレック・ホーと同じワイマナロ出身のプロ・ボディボーダー。近年、ハワイの各サーフ・ポイントではたびたびサーファーとボディボーダーの間で波の取り合いによるトラブルが起こっている。
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   <title>バレンタイン・デイ前日の大波</title>
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   <published>2007-11-12T15:03:19Z</published>
   <updated>2007-11-12T15:04:04Z</updated>
   
   <summary> トッド・チェッサーの死は、1997年のノースショアで最も大きな事件となった。ここに住む多くの住人にとって彼の死はあまりにも身近なできごとであり、彼の死が伝えられたその日の夕方にはノースショア全体が深い悲しみに沈んでいた。また、トーイン・ロ...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
   </author>
         <category term="海の英雄列伝：トッド・チェッサー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="816" label="アーロン・ランバート" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="832" label="クライド・アイカウ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="825" label="ケン・ブラッドショー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="815" label="コディ・グラハム" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="97" label="ジェリー・ロペス" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="820" label="ジョエーン・ホー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="827" label="デイブ・カラマ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="819" label="デリック・ホー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <category term="830" label="ロス・クラーク・ジョーンズ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="todd-chesser.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/todd-chesser.jpg" width="480" height="702" />
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トッド・チェッサーの死は、1997年のノースショアで最も大きな事件となった。ここに住む多くの住人にとって彼の死はあまりにも身近なできごとであり、彼の死が伝えられたその日の夕方にはノースショア全体が深い悲しみに沈んでいた。また、トーイン・ロープを右の太ももにからませて肉をそいでしまったミルトン・ウイリスをはじめ、多くのサーファーやボデイボーダーたちがこの日押し寄せた大自然のパワーの前に深く傷ついていた。
<br>
1997年2月13日（木曜日）、その日は、バレンタイの前日だった。ノースショアの各ビーチは15フィート・オーバーの波が押し寄せていた。そのうえ、風速15〜25ノットという東よりの強いトレードウインドが吹くストーミーなコンディションであった。トッド・チェッサーは、コディ・グラハムとアーロン・ランバートの二人をさそって、レフト・オーバーとアリゲータ・ロックのあいだで割れる沖のモンスター・ブレイクに向かった。
<br>
コディ・グラハムはいう。「ピークで12〜15フィートあったけど、海に入った午前11時ごろいきなり大きなセットが入ってきたんだ。最初のはクリアできたんだけど、その次のやつはあまりにもデカすぎたんだ。それにわたしたち3人のポジションが悪すぎたね。最悪の時に最悪の場所にいたんだよ。」
<br>
2回目のブレイクが治まってグラハムが海面に出ると、トッドはすでに意識不明の状態で海面に浮いていたという。グラハムとアーロン・ランバートは急いで海のなかで蘇生をはじめたが、トッド・チェッサーの意識は戻らなかった。アーロン・ランバートは助けを呼ぶべく、自分のサーフボードをグラハムに渡して、岸に向かって泳ぎはじめた。そのとき、再び10フィートの波がブレイクし、グラハムはトッド・チェッサーを見失ってしまった。
<br>
トッド・チェッサーを海のなかから拾い上げたのは、<a href="http://www.kooks.jp/doctor/cat39/post_34.php" target="_blank">テリー・アフエ</a>である。テリーは、当時ノースショアを統括するライフ・ガードのスーパー・バイザーとして活躍するベテランのライフ・ガードであり、ケビン・コスナーの映画「ウオーター・ワールド」でも華麗なスタントを披露したジェット・スキーの名手でもある。テリー自身、トッド・チェッサーがスタントを演じていた<strong>映画「イン・ゴッド・ハンド」※注3</strong>では、スタントマンたちをバック・アップするサポーターとしてジェット・スキーを駆って参加していたのである。「彼はすでに息もしていなければ、心臓も動いていなかったよ。もうこんな仕事辞めたいね」と、子どものころからトッド・チェッサーを知る彼は、ほとんど身内同然の若者の死を見取ったそのショックを隠せなかった。
<br>
わたしが現場であるレフト・オーバーのポイントの前にあるちょっとした木陰の脇を通りかかったのは、テリー・アフエが瀕死のトッド・チェッサーをスレッドに乗せて岸まで運び、救急車がまさに彼をワヒアワの病院へ運ぶ瞬間だった。担架の上のトッド・チェッサーの顔は、すでに血の気が引き、青みがかった白色をしており、口には気道を確保するためのチューブが挿入され、首はコルセットで固定されていた。しかし、誰も心臓マッサージも、そしてまた人工呼吸などの救命処置をしておらず、すべてが終わっていた。重苦しい空気だけがそこにはあった。
<br>
ハリウッドの冒険映画「イン・ゴッド・ハンド」では、ブライアン・ケアウラナ等とともにスタントで出演し、彼は最近自信をつけていたと、サーフィン・フォトグラファーの一人はいう。母親のジェニー・チェッサーは、そんな息子を心配していたというような話も伝えられてくる。ベテラン・サーファーである母親のジェニー・チェッサーはサーフボードのエアブラシ・アーチストとして活躍しており、またコンテストのジャッジでは辛口の採点で有名な海の女だ。マイケル・ホーとデリック・ホーの母親であるジョエーン・ホーは、「ジェニーとは、彼女がフロリダからここにやってきたときから知っているの。トッドは3歳だったの。でも、だからといってデリックが死ぬなんて今でも考えられないの」、と自らもシングル・マザーとして子育てをしてきた母親として、最愛のわが子を亡くし失意のどん底にいるジェニー・チェッサーを気づかっていた。
<br>
あのショーン・トムソンが華麗なサーフィンを見せるシーンもある冒険映画「イン・ゴッド・ハンド」の主役の一人を演じているのがシェーン・ドリアンだが、トッドが死んだその日、彼はマウイ島のジョーズにいた。「トッドが死んだなんて、信じられないよ。あの日はジョーズにいたんだけど、15〜18フィートの大波があってなかなかだったよ」と、わたしに語った。
<br>
「イン・ゴッド・ハンド」が撮影されていた当時、ジョーズには生臭いうわさが絶えなかった。その年、ジョーズ・インビテーショナルというトーイン・サーフィンのコンテストがセットされたこともあった。賞金総額10万ドル、ペプシのスポンサーでＣＢＳの全国ネットで放送されるという企画である。ジョーズといえば、いまやトーイン・サーフィンのメッカとなった感があるが、ユリ・ファーラントがその年、ジョーズから締め出されたのである。ユリ・ファーラントは、「イン・ゴッド・ハンド」でも水中部分を撮影するなど、サーフィンのムービー・メーカーとしては第一人者のひとりだ。そのユリが、「あなたに貸せるボートはこの島にはありません」と断られたのだった。
<br>
当時、マウイにはこのジョーズ・インビテーショナルにたいしていろいろな意見があった。ひとつは、ジョーズは危険なポイントで、コンテストをするような状況にないという意見。つまり、トーインではしゃいでいると、いつか死人がでるという慎重論だ。賛成論は、ケン・ブラッドショーなどオアフのビッグ・ウエーバーたちのライディングが見れるから、いいじゃないかっていう意見だ。反対の意見を集約していくと、ひとつはジョーズをこれ以上有名にさせたくないというローカリズムと、そして、金にまつわるトラブルややっかみがあるように思われる。ラスティ・ロングボード・コンテストとこの大会をプロモートする男がスポンサーやテレビ局から金を独り占めして、地元にお金が落ちないという邪推もあった。また、トーインの先駆者であるレイアード・ハミルトンやデイブ・カラマ、ジェリー・ロペス、デリック・ドーナー、マイク・ウオルツたちがコンテストに出場しないのは、すでに彼らがトーインによってテレビに出演したりビデオやスポンサーによって十分稼いだからだ、というやっかみも聞かれた。
<br>
オアフ島でトーイン・サーフィンをリードしている一団がいくつかいる。ロス・クラーク・ジョーンズ、シェーン・ホラン、マイケル＆ミルトン・ウイリス、ケン・ブラッドショー、クライド・アイカウ等である。トッド・チェッサーが死んだその日、彼らはバックヤード沖のモンスター・ブレイク、ファントムで20〜25フィートの波をキャッチしていた。彼らはまた、スポンサー探しの真最中である。「ＣＢＳだよ。アメリカの全国ネットで放送されるし、命もかかっているから最低でも20万ドルは欲しいね」と、ジョーズ・インビテーショナルに名前がノミネートされているオーストラリア人のサーファー、シェーン・ホランは。その年そう語っていた。
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トッド・チェッサーが死んで、スポンサーシップの金額が、ギャンブルの掛け金が上がるように引き上げられたという。もし本当なら悲しい話である。
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      <![CDATA[<strong>注3：</strong>
イン・ゴッド・ハンド（In God`s Hands）は、1998年春に公開されたビッグ・ウエーブを追いかけるサーファーたちを描いたハリウッド制作の青春冒険映画。監督はザルマン・キング、主演にシェーン・ドリアンが抜擢されるなど、その当時、サーファーたちの間で話題になった。]]>
   </content>
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   <title>エンプティーな沖のジャイアント・ウエーブに目を向けはじめた年</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kooks.jp/doctor/cat42/post_35.php" />
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   <published>2007-11-05T12:07:34Z</published>
   <updated>2007-11-05T12:23:26Z</updated>
   
   <summary>今から10年ほど前のできごと。将来を嘱望された一人の青年が、沖のジャイアント・ウエーブに呑まれて溺死した。名前はトッド・チェッサー。彼は３歳のとき、母親の離婚を契機に母子2人でフロリダからここノースショアへやってきた。そして、青春時代のほと...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
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         <category term="海の英雄列伝：トッド・チェッサー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="803" label="エディ・アイカウ・ビッグ・ウエーブ・コンテスト" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="416" label="シェーン・ホラン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="802" label="トッド･チェッサー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="333" label="マーク・フー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[今から10年ほど前のできごと。将来を嘱望された一人の青年が、沖のジャイアント・ウエーブに呑まれて溺死した。名前はトッド・チェッサー。彼は３歳のとき、母親の離婚を契機に母子2人でフロリダからここノースショアへやってきた。そして、青春時代のほとんどを過ごしてきた海で事故は起きた。その日はバレンタインの前日だった。トッド・チェッサーは、28年の生涯をビッグ・ウエーブに捧げた。カリフォルニア・マーベリックの海で壮絶な死を遂げた<strong>マーク・フー（注1）</strong>のときもそうだったのだが、トッド・チェッサーもまた、結婚を間近に控えたフィアンセと年老いた母親が残されてしまった。
<br>
その年、1995年の冬から1996年の春にかけて、ノースショアは例年になく波の当り年となった。ハワイに長年住むカリフォルニアからやってきたサーフィン・フォトグラファーの一人は、この年を振り返って、<strong>「このシーズンの波は昔のノースショアに戻っただけだよ。一昔前は、波があることが当たり前だったんだ」</strong>と述懐したが、たとえ波が昔に戻ったとしても、ノースショアはもはや昔に帰ることはできない。というのは、ノースショアが如実に変貌を遂げてきた年であったからだ。ノースショアの各サーフポイントが異常に混みはじめたのであった。
<br>
1978年のウインター・シーズンから毎年4〜5カ月は、ここノースショアに滞在しているオーストラリアのサーファー、シェーン・ホランは、かつて<strong>エディ・アイカウ・ビッグ・ウエーブ・コンテスト（注2）</strong>にも招待されたことのある有名なビッグ・ウエーバーであるが、「15フィート・オーバーのワイメアでも20名以上のサーファーがいる」と、ノースショアの混雑ぶりを嘆いていた。同じく招待選手のひとりでもあったケン・ブラッドショーは、<strong>「ハワイでは10フィートの波を境にサーフィンは一変する」</strong>と、いつもいっていたが、すでにほとんどのサーフポイントは、波のよい日には首都高速道路なみの渋滞となりはじめたのだった。スペシャルな人の、スペシャルな波は、もはやノースショアでは手に入れることができなくなっていた。
<br>
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<br>
こうして、この年、根っからのビッグ・ウエーバーたちは、遥か沖でブレイクする誰もいないエンプティーなジャイアント・ウエーブに目を向けはじめたのであった。ヒマラヤズ、ファントム、アウトサイド・サンセットやバックヤーズといったパドルアウトするだけでも一時間以上かかりそうな、パワーを蓄えた小山のようなうねりが最初にヒットし爆発するノースショアのアウター・リーフである。そのサイズは、ときには40～50フィートにも及ぶ。
<br>
ハワイで最初に沖のうねりに乗りだしたのはウインド・サーファーたちだ。ノースショアに限らずハワイの沖では、巨大なうねりが押し寄せ、いたるところでブレイクしている。この沖のジャイアント・ウエーブをウインド・サーファーたちは風の力を利用して滑り下りた。マリン・スポーツ全般に秀でたハワイを代表するウォーターマン、ジェリー・ロペスは、かつてわたしにこんなことを言っていた。<strong>「サーフボードで速度の早いアウター・リーフのブレイクをキャッチするには完璧なポジションが必要だ。腕だけを使うパドリングだけのパワーとスピードではテイク・オフできない」</strong>と。
<br>
このブレイクの早い沖のジャイアント・ウエーブをテイク・オフする手段として登場してきたのがジェット・スキーである。ジェット・スキーは、ライフ・ガードたちの人命救助のメソッドを劇的に変えたツールである。レスキューボードで30分かかるところをジェット・スキーなら30秒で行ける。強烈なカレントや白く渦巻くショア・ブレイクを上手にトリミングし、あっという間に沖にでることができる海のエースなのである。このジェット・スキーを使ってサーファーを引っ張ろうというアイデアであった。
<br>
元サンセットのライフ・ガード、今はマウイ島に住むデレック・ドーナーたちがこの800CCエンジンを搭載したジェット・スキーに目をつけた。（現在では、トーイン・サーフィンでは排気量1,500cc、250馬力を搭載したジェット・スキーが主流になっている）。これで沖のうねりまで水上スキーのように引っ張って行き、サーフボードに充分にスピードがついたら波のピークでロープを放し、一気に滑り下りるという算段なのだ。
<br>
1996年の暮れからこのスポーツの虜になっているシェーン・ホランは、<strong>「トーイン・サーフィンのコツは、ジェット・スキーを操縦する者が波やサーフィンのことを充分に熟知していることだ」</strong>という。彼のパートナーはミルトン・ウイリス、シェーパーであると同時にビッグ・ウエーバーでもある。
<br>
ノースショアに20フィート・クラスのビッグ・ウエーブが押し寄せたある日、ジェット・スキーのガス欠により荒れ狂う沖で漂流するサーファーの携帯から救助を求める電話がライフ・ガード・タワーにあった。トーイン・サーフィンの流行で、ライフガードの頭痛の種がまた増えたのである。
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      <![CDATA[<strong>注1：</strong>
マーク・フーは世界で5本の指に入るビッグ・ウエーバーだったが、1994年12月23日、ケン・ブラッドショー、ブロック・リトル等とももにカリフォルニアのハーフムーン・ベイのマーベリックで15〜18フィートのビッグ・ウエーブをサーフィン中、海に投げ出され1時間後に遺体となって発見された。死因はサーフボードが頭に当たりそれが原因とされている。サーフボードは3枚に割れ、1枚は未だに見つかっていない。マーク・フーは、ハワイからホセ・サンルーカスなどのカリフォルニア沿岸のビッグ・ウエーブ・ポイントのビッグ・ウエーブを追いかけるビッグ・ウエーブ・チェイサーだった。彼は、1958年シンガポール生まれのハワイ育ち。1970年代後半のプロサーファーだが、実績はそれほど残せなかった。しかし、サーフィン・ジャーナリストとして、マイク・ロトニックと共同製作していたハワイのサーフィン・テレビ番組「Ｈ3O」は、サーファーたちが自ら製作するサーファーのための番組で、スポーツとしてのサーフィンとライフスタイルを克明に描き、大評判を博した。生前は、日本語が堪能な母親と姉の3人家族。当時、アラモアナのリバティハウスのブティックで働いていたフィアンセのリサ、そしてノースショアでＢ＆Ｂの民宿をやっている姉のシャーリーンは弟の死に大きな衝撃を受けていた。マーク・フーの葬儀はビッグ・ウエーバーゆかりの地ワイメア・ベイでおこなわれた。当日のワイメア・ベイには、美しい南国の花に飾られた在りし日の彼のポートレートが愛用のサーフボードとともに正面に置かれた。マーク・フーの遺骨は姉のシャーリーンや恋人の手に抱かれ、親族、関係者、友人とともにワイメアポイントまで運ばれた。その後、全員がサーフボードに跨がり手をつないで丸く輪になって、首にかけていたレイの花びらや水しぶきが舞うなか、骨になったマーク・フーが海に放たれた。このようなハワイ式セレモニーは、エディ・アイカウ・ビッグ・ウエーブ・コンテストのオープニング・セレモニーとして、エディ・アイカウを偲び、出場選手たちにより行われている。
<br>
<strong>注2：</strong>
エディ・アイカウは1946年5月4日、ハワイ生まれ、父親ソロモン（愛称ポップス）、母親ヘンリッタ、兄弟はフレデリック、マイラ、エドワード、ソロモン、クライド。1967年11月19日、ワイメアの４０フィートのジャイアント・ウエーブをドロップし、一躍その名がハワイ中に知れわたる。1971年、ワイメアのライフ・ガードになり、1976年3月16日、ホクレア号2回目の航海で遭難死するまでに助け上げた人の数が5,000人にも及んだという。1976年、古代タヒチアンの帆船を再現したホクレア号による２回目のタヒチ航海時にもクルーの一員として参加、そのホクレア号は出帆直後ラナイ島沖で嵐に巻き込まれ沈みかけたが、その時、エディ・アイカウはサーフボードに自らの体を縛り付け、救助を求めて荒れ狂う海に飛び込み、そのまま行方不明になってしまった、ハワイの海の英雄である。この海の伝説的英雄、エディ・アイカウを偲び、1985年からはじまったコンテストが「ザ・クイックシルバー・イン・メモリー・ウイズ・エディ・アイカウ」だ。このコンテストは波の高さが最低でも20フィートないと開催されないという、まさに世界一のビッグ・ウエーバーを決めるコンテストなのである。通常コンテストは２週間のウエーティング期間があるが、この大会では12月から２月末まで約３か月もあり、また選手は毎年33名の招待選手が大会コミティから発表される。
]]>
   </content>
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   <title>テリー・アフエ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kooks.jp/doctor/cat39/post_34.php" />
   <id>tag:www.kooks.jp,2007:/doctor//5.329</id>
   
   <published>2007-10-18T03:31:49Z</published>
   <updated>2007-10-18T03:50:56Z</updated>
   
   <summary> ライフ・ガード（注1）は、いってみれば海の掟（ルール）を守る番人なのだろう。ところが、えてして海の掟はヒトが作った掟と相いれない。矛盾だらけの人間社会の掟など大自然の前では用をなさないからだ。こうした大自然の掟のなかで生活しているライフ・...</summary>
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      <name>MORISHITA</name>
      
   </author>
         <category term="ライフ・ガード物語" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="785" label="エフカイ・ビーチ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="416" label="シェーン・ホラン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="781" label="テリー・アフエ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="782" label="フイ・オ・ヘエナル" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="784" label="ミック・オブライエン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="780" label="ライフ･ガード" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kooks.jp/doctor/">
      <![CDATA[<img alt="lifeguard.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/lifeguard.jpg" width="480" height="364" />
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<strong>ライフ・ガード（注1）</strong>は、いってみれば海の掟（ルール）を守る番人なのだろう。ところが、えてして海の掟はヒトが作った掟と相いれない。矛盾だらけの人間社会の掟など大自然の前では用をなさないからだ。こうした大自然の掟のなかで生活しているライフ・ガードは、そんな社会とのルールとの狭間に悩むこともある。
<br>
テリー・アフエに初めて会ったのは、まだわたしがハワイに移住する前のことだ。取材のためにノースショアを訪れていたある日のこと、ププケアの丘の上に住む旧知の友人夫妻の家で催されるバーベキュー・パーティに誘われた。そのバーベキュー・パーティは、<strong>フイ・オ・ヘエナル（注2）</strong>のメンバー、いわゆるブラック・ショーツと呼ばれるサーファーたちローカルのパーティで、友人は、わたしのために顔見知りになっておくほうがいいだろうと考えて、そのパーティに招待してくれたのだ。その場にはファースト・エディことエディ・ロスマンスをはじめ、スクイジーやジュニア（故人）など、強面（こわもて）のブラック・ショーツの顔ぶれが並び、友人はその一人一人を紹介してくれた。そのなかにテリー・アフエがいた。友人は笑いながらわたしにこう紹介してくれた。
<br>
「テリー・アフエ、彼はフイ・オ・ヘエナルの会計係だよ」と。テリー・アフエは、わたしに「ライフ・ガードをやっているから、何か困ったことがあればいつでも声をかけておいで」
<br>
と、ノースショア式の挨拶でわたしの手を握り返してきた。
ノースショアに住みはじめてみると、四方を海に囲まれた島国ハワイの生活のなかで、毎日目にするライフ・ガードの存在の大きさを実感し、わたしは興味を持ってライフ・ガード、テリー・アフエと接することとなった。
<br>
オーストラリアのサーファー、シェーン・ホランは、ライフ・ガード、テリー・アフエのついての印象深いシーンを目撃していた。ノースショア・シーズンにはいった冬のある日、<strong>シェーン・ホランは、レイアード・ハミルトンやミック・オブライエン（注3）</strong>らと連れ立って<strong>エフカイ・ビーチ（注4）</strong>で波をチェックしていた。波のサイズは6フィート・オーバー（2メートル前後）。隣り合う二つのサーフ・ポイント、パイプラインで崩れた波とププケアで裂けた波がちょうど真ん中辺りでぶつかり合い、白く渦を巻いていた。
<br>
「ちょうど波がぶつかり合う辺りで、テリーが手を大きく広げて海中にある何かをつかもうとして上半身を水のなかにいれたりだしたりしていた。テリーには緊張感が漂っていて、これはただごとではないなと、直感したよ。そのうちに彼は、何かを海のなかから引っ張りだしたんだ。中年の白人の観光客で、洋服も着ていた。テリーはすぐに溺れた男性をジェット・スキーに装着した<strong>救命用スレッド（注5）</strong>に引き上げて、その場で人口呼吸をはじめたんだ。ほんの5分ぐらいの間のできごとだったよ」
<br>
溺れたその男性は、病院へ急ぐ救急車のなかで息を吹き返したという。
その後、サンセット・ビーチでテリー・アフエと会った時に、シェーン・ホランらが目撃したその救出劇について、尋ねてみた。
<br>
「危険なのは、海のことをまったく知らない観光客なんだ。ノースショアの海をバックに記念写真を、と言っている間に打ち寄せてきた波にさらわれてしまうんだ。あの時は本当に危なかった。でも助かってよかったね」
<br>
と、テリーは、その救出劇をなにごともなかったように話す。あの時、彼自身も、溺れて意識不明になった200パウンド（90キログラム）の男性を抱え、沖に向かう強いカレント（潮流）にはまり体力を使い果たしていた。応援に駆けつけた同僚のライフ・ガードが投げたロープにつかまり、ことなきを得たという。
<br>
テリー・アフエは、ノースショアでもっとも優秀なライフ・ガードの一人だ。世界中からここハワイに波乗り修業にやってくるサーファーたちが口をそろえて「世界一優秀なライフ・ガード」と絶賛するハワイのライフ・ガードたちのなかにあっても、「テリーがベスト」とみんなが認める、海で頼りになる存在なのだ。20フィートを越える波が押し寄せる日のワイメア・ベイには、逆巻く波を自由自在にジェット・スキーを操るテリーの姿が必ずある。ビッグ・ウエーブに挑戦するサーファーたちに何か不測の事態があればいつでも救助できるようにとの配慮からだ。
<br>
初夏のあるとき、ノースショアには季節外れのちょっとした波が押し寄せていたときのことだ。わたしは、ライフ・ガードとサーファーの関係、絆を感じるできごとを目撃した。その日、海際にあるサンセット・ビーチのパーキング・ロッドに車を停め、波を見ていたときのことだ。コバルト・ブルーに輝くサンセット・ビーチの波打ち際では、タウンからやってきた観光客たちが、浮輪やビニール製のボートで水遊ぶを楽しんでいた。と、そこにサンセット・ポイントの正面が壁立つほどのセットが入ってきた。ローカルたちが2,000本に1本やってくると恐れる「オバケ」セットである。危ないなっと思うまもなく、インサイドに押し寄せた波は、再び沖に向かうカレントとなって、波打ち際にいた7～8人の観光客を浮輪やビニール製のボートごとロッキー・ポイントの方へ押し出してしまったのだ。ライフ・ガード・タワーにいたライフ・ガードたちはすぐさま彼ら観光客を救うべく救助に向かったのだが、手が足りず2組ほどの観光客がどんどんと沖のブレーク・ポイントに吸い込まれていく。と、4～5人のサーファーが海に飛び込み、残りの観光客の救助に向かって、事なきを得たのだった。とはいえ、最後に救助された男性の観光客はビニール製のボートごとショア・ブレイクで岸にたたきつけられてしまったのだが。その男性は、お礼もそこそこに消えていなくなった。
<br>
このようにひとたびノースショアに波が立つと、ライフ・ガードの手が足りず、回りのサーファーが沖に流された海水浴客を救助に行くといったシーンをたびたび目撃しているが、ハワイではライフ・ガードとサーファーたちは、お互いに「ブラ（兄弟）」と呼び合う、ハワイ独特の深い絆で結ばれているのだった。それでも、それについて問うてみると、テリー・アフエは、口では身内であるはずのサーファーたちにそっけないのだ。
<br>
「サーファーは荒海を承知ではいっているんだし、彼らは彼ら自身、自分たちで助け合うしかないんだよ。ライフ・ガードはそこまで目が回らない」ともいう。それでも、彼の目線の外れにはサーファーの姿があるに違いない。
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テリー・アフエがサーフィンをはじめたのは15歳のときだ。ハワイでは比較的遅いほうだが、物心つくころからずーとボディ・サーフィンを楽しんでいたという。ボディ・サーフィンは、ライフ・ガードやサーファーに限らず、ハワイの海で遊ぶには基本的な必須アイテムといえる。
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「ハウラのビーチはボディ・サーフィンに最適なビーチなんだ。サーフィンをやるようになってからはノースショアにやってくるようになったけど、小さい頃は毎日ハウラのビーチで遊んでいた」。
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ハウラ・ビーチは地元の人たちがよく行く、ローカルのお気に入りビーチだ。20台ほどが入れる駐車場があり、キャム・ハイウエイからは背の丈ほどの高さの熱帯常葉樹で隠されて見えない、ハワイにしてはこじんまりとしたローカルなビーチである。このビーチのあるハウラや隣のライエにはハワイアンやサモアンなど、ポリネシアン系の住民が多く住んでいる。彼は、古き良き時代のハワイの気配が色濃く残るこの地域で生まれ育った。
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テリー・アフエが<strong>ライフ・ガードになったのは、23歳のときだ（注6）。</strong>
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「サービス（兵役）を終えた後、すぐにライフ・ガードになったんだ。なぜって？　なりたかったからさ。」
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海と共に生きてきた彼の環境がライフ・ガードという職業を彼に選ばせたのかもしれない。
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ハワイのライフ・ガード組織は、ハワイの観光産業育成のため一環として、ホノルルシティ＆カウンティの一部所として1940年に導入された。設立初期に採用されたライフ・ガードたちのほとんどはサーファーで、いわゆるいつも海辺にたむろするビーチ・ボーイだった。当時、海で遊んでいた彼らは、すでに大勢の観光客を助け上げていた。
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「わたしがライフ・ガードになった当時、ワイメア・ベイではエディ・アイカウが、マカハではバッファローが現役バリバリでやっていたんだ」。
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ハワイでは基本的に、ライフ・ガードは毎日同じビーチに勤務する。ライフ・ガードを続けているかぎり、そのライフ・ガードは生涯同じビーチにいるわけだ。
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「ライフ・ガードは人命救助や適切なアドバイスができるように、刻一刻変化する海の状況に応じて、どこにリーフの深みができているのか、どこに沖に流れるカレントがあるのかといった、その周辺一帯の海のすべてを知っているエキスパートでなければならないんだ。だから、ライフ・ガードは3～5人のチームを組んで、サンセット・ビーチのライフ・ガードはサンセットのスペシャリストに、エフカイ・ビーチのライフ・ガードはエフカイやパイプラインのスペシャリストに、といったように同じビーチに勤務する体制になっている」
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と、テリーはいう。ビーチ・ボーイというハワイ独特の風習・文化がハワイ独特のライフ・ガード・システムを生み出したといえよう。
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エディ・アイカウやバッファローがハワイアン・スピリッツを重視した伝統的なライフ・ガードだとすると、テリー・アフエやバッファローの息子のブライアン・ケアウラナは、テクノロジーを駆使するニュー・ウエーブのライフ・ガードだろう。彼らは1990年、世界に先駆けて救助活動にジェット・スキーを導入するなど、装備の近代化を計り、ライフ・ガードの概念そのものを変えた。その後、彼ら二人が中心になってジェット・スキーに牽引させる救助用ソリ、スレッドを開発するなど、世界中のライフ・ガードから脚光を浴び、日本をはじめほかの国のライフ・ガードたちもジェット・スキーと救助用ソリ、スレッドをセットとして取り入れている。
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「趣味でジェット・スキーをやりだしたのは1970年代の後半。当時、ブライアンなどとウエーブ・コンテストをやったりしたんだ。ジェット・スキーを救助活動に使おうと思ったのは、サーフィンのコンテストの時に選手やカメラマンをジェット・スキーでサーフ・ポイントに運んだりしているうちにでてきたアイデアなんだ」。
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わたしも1980年代はじめにタートル・ベイで行われていたジェット・スキーのコンテストを取材した思い出がある。テリー・アフエのジェット・スキーの卓越したドライビング・テクニックはハリウッドのお眼鏡にもかなった。彼は、ケビン・コスナー監督・主演の映画「ウォーター・ワールド」に出演、ジェット・スキーでスタントを披露しているのだ。
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「映画って、面白いね。まったく出番がなくてもスタント・マンとして一日250ドルもらえる。エア・ループとか際どいスタントをすると演技料がプラスされる。撮影に二カ月もかかってしまい、もらい過ぎだと思ったね」。
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その後、「イン・ゴッド・ハンド」の映画でも、エスコートとしてジェット・スキーを駆って参加している。
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「その時は、あと5年ライフ・ガードをやれば年金がもらえるようになるから、そうしたらライフ・ガードを辞めてハリウッドに進出しようかな」
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と、冗談を言ってその当時を思い出して笑った。その後、テリー・アフエはライフ・ガードをリタイアし、念願の会社を興した。もちろん、特技のジェット・スキーの腕前を生かした民間ライフ・ガード会社である。
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ハワイのライフ・ガードは使命感がとても強い。それはリタイヤしても同じである、という。わたしが、今までに殉職したライフ・ガードはいるんだろうかって、尋ねたところ、テリーは思い出すようにつぶやいた。
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「悲しい話だよ・・・」
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ジョニー・ライトはマカハを代表するライフ・ガードの一人だった。ライフ・ガードを辞めたあとも海をこよなく愛した彼は毎日のようにビーチに通っていた。56歳を過ぎたある日、いつものようにビーチにいたジョニーは、溺れた観光客を助けようと海に飛び込み、そのまま再び姿を現わさなかった。
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「・・・あっけない最後だったよ。」
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主人の帰りを待つ愛犬と主のいなくなったビーチ・サンダルだけがいつまでもビーチに取り残されていたという。ライフ・ガードを辞めても体に染みついたハワイのライフ・ガード魂。なんとも因果で悲しい性（さが）なのであろう。
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      <![CDATA[<strong>注1：</strong>
ハワイのライフ・ガードは、ホノルル・シティ＆カウンティに所属する地方公務員だ。勤務時間は朝9時から夕方5時半まで。週5日働き、夏休みもある。テリー・アフエの現役時代は、スーパー・バイーザーとしてノースショアにあるすべてのライフ・ガード・タワーを見回っていた。ハワイではライフ・ガードを置いているビーチは、オアフ島25カ所、マウイ島5カ所、ビッグ・アイランド5カ所、カウアイ島7カ所、ハワイ全島では42カ所ある。オアフ島には、89名のライフ・ガードと90名のパート・タイム、合計179名のライフ・ガードが在籍している。（1997年12月のデータ）


<strong>注2：</strong>
フイ・オ・ヘエナル（Hui O HeeNalu）は、ハワイ語で「波乗りの会、つまりサーフ・クラブ」の意。ローカリズムの高まりのなかでノースショアのローカルたちの青年自警団的組織として、1976年に設立された。古代ハワイアンが岩に刻んだサーファーのペトログリフ（陰刻画）をモチーフにしたマークが有名。その後、オーストラリアのサーファーたちと波をめぐるいさかいが起こり、和解の印としてクイックシルバー社からフイ・オ・ヘエナルのマークの入った黒のサーフトランクスが贈られ、ノースショアのローカルたちがみんなそれを履いて波乗りをしていたために、フイ・オ・ヘエナルは別名ブラック・ショーツと呼ばれるようになった。


<strong>注3：</strong>
シェーン・ホラン、レアード・ハミルトン（ビル・ハミルトンの息子）、ミック・オブライエンは、いずれも世界的なビッグ・ウエーバー。


<strong>注4：</strong>
エフカイ・ビーチはノースショアを代表するビーチのひとつ。毎年12月にトリプル・クラウン・オブ・サーフィングのひとつ、パイプライン・マスターズというコンテストが行われる。かつて、ここは伝説のライフ・ガードでありハワイのボディ・サーフィンのチャンピオン、マーク・カニングハ厶の職場でもあった。


<strong>注5：</strong>
救命用スレッドは大型のボディボードのようなスポンジのボードで、ブライアン・ケアウラナやテリー・アフエなどが中心になって開発した。この救命用スレッドは、今や世界中のライフ・ガードが取り入れている救助機具だ。


<strong>注6：</strong>
ライフ・ガードの試験は、毎年3月アラモアナ公園の前のビーチとラグーン（内海）を使って行われる。試験は三段階に別れていて、まず第一段階では、25分以内にラグーンの西の端から東の端まで1,000メートル泳ぎ、ビーチに上がって1,000メートル走り折り返してくる。その試験に合格すると、ラグーンに設置した縦一列にマークを浮かべた400メートルのコースをパドル・ボードでジグザグに通り、5分以内にゴールを通過しなければならない。第三段階では、よりライフ・ガードの仕事に近い試験で、まずビーチを400メートル走り、400メートル泳ぎ、またビーチに上がって400メートル走り、5分以内にゴールを通過しなければならない。毎年、シティ＆カウンティに所属するすべてのライフ・ガードと新規採用予定者はこの試験にパスしなければならない。また、ドラッグ・テストもすべてのライフ・ガードにたいして毎年行われる。
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   <title>観光産業として売り出された、楽園ハワイ</title>
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   <published>2007-10-14T11:14:31Z</published>
   <updated>2007-10-14T11:21:33Z</updated>
   
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初めてワイキキ・ビーチに本格的な観光客用のホテルが建てられたのは、1901年のことだ。繊細な英国ビクトリアン調の流れをくむ華麗なシー・サイド・ロッジ、モアナ・ホテルである。その後、1927年には、南国調満点の豪奢なリゾート、ロイヤル・ハワイアン・ホテルが建てられている。トロピカル・デコ建築の傑作といわれるピンク色に塗られた歴史的建物は、 白いワイキキ・ビーチとダイヤモンド・ヘッドに一際美しく映えた。
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こうして、当時客船によるハワイへの船旅が一部上流階級の人たちの間で一般的になりつつあった時代、ワイキキ・ビーチをはじめとして、捕鯨の港マウイ島ラハイナ、ビッグ・アイランドの火山、カウアイ島などハワイ諸島は、西洋人好みのトロピカルな景観や観光諸施設、ロイヤル・ハワイアン・ホテルやアロハ・タワーなどのエキゾチックなランド・マークを整え、南海の保養地として脚光を浴びるようになる。
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当時、第一次世界大戦を経たアメリカは、史上最高の好景気を迎えていた。一戸建ての家や車とともに、南国の島々、ハワイへの豪華な船旅のパッケージ旅行が売り出されるようになる。アメリカ、サンフランシスコに本社を置く船会社、マトソン・ラインの1928年版の旅行パンフレットにはハワイ諸島16日間周遊パックが載っている。その興味深い日程を紹介しよう。
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 「土曜日の午後にサンフランシスコの32番埠頭を出港、翌週水曜日の午後ホノルルに入港。木曜日から土曜日の間は汽車（当時オアフ島にはパイナップルや砂糖キビを運ぶ小さな蒸気機関車が走っていた）と車でオアフ島見物。日曜日の午後7時に次の予定地カウアイ島へ船出し、水曜日朝7時にホノルルへ戻る。木曜日午後４時ハワイ島ヒロ到着。ハナクマ海岸、キラウエア火山見物の後、日曜日朝７時ホノルル到着。帰りは金曜日午後４時ホノルルを出港し、翌週水曜日朝９時にサンフランシスコ帰港」という行き帰りを入れて合計25日間の船旅である。
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このホテル・島内観光がパッケージになったハワイのツアー料金は1人450～840ドルとなっている。ワイキキのホテルは３ランクに料金が別れており、当時、オープンしたてのロイヤル・ハワイアン・ホテルが一番高く、次いでモアナ・ホテル。一番安いランクはただシー・サイド・ロッジと記してあるだけだ。このパック旅行の一等料金で当時小さな庭付きの家が買えたというから、ハワイの船旅を楽しんでいた船客たちがいかにハイ・ソサエティな人種かお解りいただけるだろう。
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この時代の一般的アメリカ人にとってハワイは「南海に浮かぶ夢の楽園」という存在であり、当時、アメリカ人やヨーロッパの人々など西欧人は、病的ともいえるほど南方を志向していた。優秀なアーチストや頭脳労働者たちは、いつの時代においてももっとも華やかな世界、大金が動く経済活動の活発な産業に集まる。富がアメリカに集中しはじめた1930～1940年代の花形産業といえば、軍需、自動車、海運などで、豪華客船の時代を迎えつつあった旅行関連やサービス、家電、通信業界は有望産業として注目されていた。
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ハワイ航路に「ルア・ライン」、「マトソニア」など８隻の客船を運航していたマトソン・ラインでは、自社の客船に使用するメニューや旅行案内書などのグラフィックデザインに、当時ニューヨークで注目を集めていた若手イラストレーターのフランク・マッキントッシュを起用している。顧客サービスの一環として、マトソン・ラインはハワイ航路における楽園のイメージ統一、いまでいうＣＩ（コーポレート・アイデンティティ）をおこない、楽園をビジュアルに展開したのである。ブラシワークを多用した彼の作品は1940年代を代表するハワイの楽園アートとして評価を受けた。
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<strong>フランク・マッキントッシュ</strong>はオレゴン州に生まれ、少年時代にサンフランシスコに移り、チャイナ・タウンでオリエント・アートの影響を受ける。ＵＣバークレー校美術科で学んだ後、ニューヨークへ出てノーマン・ベル・ゲデスのステージ・デザインを学ぶ。その後、アジア・マガジンの表紙のイラストレーターとして９年間その仕事を続けた。この仕事によって彼はオリエンタル・アートの世界で名前を知られるようになった。
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正確にはわからないが、フランク・マッキントッシュが制作したこの一連の作品は1938年頃から1947年頃の間、サンフランシスコ、またはロスアンジェルス-ハワイ間を航海するマトソン・ラインの客船ディナー・メニューの表紙、旅行パンフレット、ポスターなどに使われていた。
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サンフランシスコやロスアンジェルスからハワイまでの旅行日数は４～５日間、ホノルルのアロハ・タワーに到着するまでに４回から５回のディナーがある。毎晩ボーイが配るディナー・メニューは６種類あり、それぞれマッキントッシュの楽園のおんなたちや、色鮮やかなトロピカルな楽園が描かれていた。船客たちはその表紙を見ながら南の島への憧憬を深めていったに相違ない。
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<img alt="dinner.jpg" src="http://www.kooks.jp/doctor/images/dinner.jpg" width="480" height="660" />
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ここにＳＳルア・ラインの1939年１月28日木曜日のメニューを紹介しよう。その日の太平洋はないでいたのだろうか。アペタイザーは、スモーク・サーモン、チルド・パパイヤ、フレッシュ・シーフード・カクテル。スープはマッシュルームのクリーム・スープかモンテカルロ・コンソメ・スープ。魚料理はコロンビア川のボイルド・サーモンにパラミテイン・ソース、肉料理は本日のスペシャルメニューで、チキン・ポット・パイ、ヤング・コーン添え。その他に、ターキーのハム、アイダホのジャガイモ、オールド・イングリッシュ・チーズとヨーク・ハム、デザートには、ハワイアン・パイナップル・ケーキやチョコレート・クリーム・パイ、ラズベリー・シャーベットなどが用意されている。
　この一枚のディナー・メニューには数多くの楽園のストーリーが描かれており、いまも見る人に色鮮やかな当時の航海の様子を伝えてくれる。
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