新島

2016年08月30日

つい最近もJPSAの大会が、新島で行われ、ネット上での写真を目にし、相変わらず綺麗な海、ビーチブレークのドッカ~ンウエーブに、想いを馳せていた。

いつだったか(たぶん1968年)、新島出身の植松清に誘われ、竹芝から東海汽船で彼の実家、新島へ出かけたのが初めてだった。

夜の10時過ぎ、夏休みの帰省やダイビング、釣り人でごった返す、カオス状態の竹芝桟橋。
行き先ごとに看板が立てられ、我れ先、乗船を争う様(殺気立つ)列が出来る、が、さすがにサーフボードを持った奴は見かけなかった。

乗船名簿なる紙切れに、名前、住所を記載し、手荷物扱いのサーフボード(有料)に荷札用のタグを受け取り付ける指示だったが、針金をツイストして止めるタイプのもで、縛る場所が無く、
テープでボトムに張った。(ちなみにボードケースなるものも無く、むき出しのまま)

デッキまで溢れた乗客との陣取り合戦が始まり、まごまごする我らに、こんな状況に慣れた、植松の誘導でスムーズに進む。

甲板後尾、二階までボードを運び込むのだが、一人が桟橋から、ボードを差し出し、それを、既に陣取りが終わり場所の確保をしたものが、受け取る、という、システムに関心しながら、
この先一体どーなるんだろ!不安と期待の交差する興奮状態は、出帆のドラの音でさらに増幅、カラフルな紙テープが幾重衣にも絡まりながら、岸壁を離れ、蒸し暑い夏の夜空を、赤く染めるの京浜工業地帯を右手に、ゆっくりと東京湾出口に向かいクルーズを始めた本船。
植松の差し入れの缶ビールで、少し落ち着きを取り戻し、いつしか、不慣れな乗船の疲れもあり、甲板のゴザの上で、寝入ってしまった。

明け方船が停船してる事に気づく、が一行はだれ一人起きようとしない。まだ新島ではなく、大島だった。そーかっ、色々島を経由しながら目的地までの航海だった。

この定期航路は人を運ぶ以外にも、物資の運搬もかねているので、港での停泊が長い。生活物資から、車、建築資材から、家畜まで、と、次々とクレーンで、運び降ろされる光景は、
離島の生活を垣間みれ、夏休みを、植松家でお世話になる、心得を取得したのであった。

やがて利島で、再び人、物資をおろした後、新島へと向かう。この辺りから海の色が代わり、コバルトブルーの海面を船主が切り裂く、スープの白さとのコントラストが、夏休み!海だ!サーフィンだ!の浮いた気分をさらに、あおってくれる。時たま、海面を滑空するトビウオに外海にでた事を確認しながら、順調にクルーズ、どんどん海の色が変わって行く!

当時、新島は現在の用に立派な桟橋がなく、本船が接岸出来ず、沖に停泊し港の間を、行き来するハシケが、人、物資を、運ぶ全ての手段。
大きく揺れる、小さなハシケに、アッパーデッキから来た時と同じ様にボードを素早くを手渡して、荷物を持ち、下に降り、本船に横付けされた、ハシケに飛び乗る。
下船ではなく、海上乗り換え!当時、新島詣での正式な儀式であり、このとき荷物を落としたり、と、ハプニングが毎回のイベントであった。

島に一歩踏み入れての印象は、白かった!特徴的、抗化石が、島全体を覆い広い海岸線(羽伏浦)がつづき、透明度の高い海とブレークする波で交あう。
この白い砂が、沖合に滑り出し、所々にバンクを造り、左右に均等なブレークで、ビーチブレーク特有なダンパー状態を防いでいた。
今は、海岸の砂も減り、海底が深くなり過ぎたため、小さいうねりのサーフが難しいが、当時は、夏に多い南西風が、オフショアな面を保ち、太陽のもと、それはそれは、ファンな遊び場だった。

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写真は70年の第2回の新島盃の風景。手軽なデジタルカメラも携帯もない、古き良き時代。

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ボードが極端に短くなったのもこの時代、まさにロングからショートへの移行期。シングルフィンにノーリッシュ、ワイプアウトでボードを流す事は、コンペでは致命的な時代であった。
サーファーが持つ独特な原始人的テイストも、この時代が最後かもしれない。



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